日本帝国陸軍である関東軍は、1933年2月18日から新たな満州国の軍事行動として熱河作戦を開始して、満州国西部の熱河省から国民革命軍を掃討する作戦に出た。熱河省の古北口にて、関東軍は戦車とともに侵攻した。その周辺には、殺害された国民革命軍の中国人兵士の死体が散乱した。4月21日から4月30日の古北口の戦いでは、関東軍は戦死者約74人と戦傷者約232人が犠牲となった。日本政府は1933年1月13日に、関東軍に万里の長城の北側の国境を越えないを越えない条件下で、作戦を容認していた。5月31日に関東軍は、満州事変による中国東北の占領を国民革命軍側に黙認させた塘沽協定を調印した。
関東軍は、1931年9月18日の柳条湖事件の勃発から、中国東北地域の満州を侵略戦争を開始した。1932年3月1日に溥儀を満洲国執政として、関東軍が傀儡する満洲国の建国を宣言していた。関東軍は、熱河省は満洲国の一部と認識していた。しかし、熱河作戦が勃発した1933年2月初頭には、国際連盟は関東軍による新たな熱河省の軍事行動を非難する決議を用意した。国際連盟の非難勧告案により、満洲国の占領が否定されて、連盟規約により日本が国際的に経済制裁を受けるに至る。1933年2月24日に国際連盟総会で採決された勧告案は、満洲国の成立を認めず、満洲事変以降の日本の戦争責任を糾弾した。採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対は日本のみの1ヵ国、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)であった。日本の国連代表団は即時に非難勧告案を拒否して、会場から脱会して、日本政府は1933年3月27日に公式に国際連盟の脱退を決定した。国際連盟の脱退により、連盟規約に基づく経済制裁を回避するも、国際的に孤立化した。
満州事変時の日本政府は、関東軍を賞賛しながら国威を発揚した。4月27日に帰国した国連代表団を英雄に出迎え、国際社会での孤立を光栄とした。明治時代の日本政府は国際的規範を遵守していたが、昭和初期から、国際社会での協調よりも日本の富国挙兵を優先した。関東軍による熱河省に侵攻が、国際連盟の脱退から太平洋戦争へと繫がる重大な危機へと導く危険な起点となった。
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