イスラエル軍兵士は、1956年10月29日にヨルダン国境付近のカフル・カセムの村で、約47人のパレスチナ人の村人を虐殺した(唯一の証拠写真)。約80万人のパレスチナ人の亡命に繋がる民族浄化の意図的な政策の虐殺事件となった。この虐殺事件の背後には、エジプトのナセル大統領によるスエズ運河の国有化と武力動員の政治的結果と分析されていたる。
イスラエル軍はエジプトに侵攻するシナイ作戦の前夜の1956年10月29日に、警告することもなく戒厳令を発令した。ヨルダン国境近くのすべてのパレスチナ人の村に、午後5時から翌日午前6時まで適用する戦時の夜間外出禁止令を命じた。イスラエル軍の国境警備員は、午後5時以降に家の外で発見した人を撃ち殺し、男性、女性、子供、村の外から戻ってきた人を区別しないと通知された。夜間外出すれば、パレスチナ人は路上で撃たれることになっていた。イスラエル軍の命令は、村からのほとんどのパレスチナ人に通知される前に、午後3時30分にイスラエル国境警備隊に通知された。多くパレスチナ人の住民は当時働いていた。村人たちは仕事や畑からカフル・カセムの自宅に到着し始めていた。イスラエル軍はクファール・かセムの村民に発砲した。午後5時すぎから約1時間で約47人のパレスチナ人が虐殺された。6人の女性と23人の子供と3歳から17歳の少年も含まれていた。
カフル・かセム村民の虐殺のニュースは検閲されて、イスラエルの一般大衆は数週間後まで知らされなかった。ダビド・ベングリオン首相は、秘密の調査の結果を発表した。11人の国境警備員が最終的に犯罪で起訴されて、8人が有罪判決を受けた。投獄された国境警備員の刑期が短縮された。刑務所で3年半以上服役した囚人は誰もいなかった。イスラエル軍の司令官は象徴的にわずか10プルトットの罰金刑を受けたのみであった。