関東大震災が1923年9月1日の約11時58分32秒に勃発して、甚大な被害と犠牲者が発生した。午後3時頃に、社会主義者及び鮮人の放火多し、流言が発生した。関東大震災にまぎれて9月5日に、日本軍の軍隊が断頭して虐殺した社会主義者の北島吉蔵らと推定される裸の死体が散乱した。労働運動や社会主義運動指導者の殺害事件である亀戸事件や甘粕事件も混乱に紛れて発生した。
9月3日に関東戒厳司令部が特設された。全国各地から約35,000人の日本軍の軍隊が、関東大震災に招集されていた。日本軍の軍隊は9月5日未明に、社会主義者の約10人を虐殺した。東京朝日新聞は10月11日付けで、「復も社会主義者9名、軍隊の手に刺殺さる、亀戸署管内に於ける怪事件、死体は石油を注いで直ちに焼却す」と見出し記事を発行した。日本軍の軍隊が9月3日に検束された平沢計七、川合義虎ら社会主義者の約10人を虐殺した亀戸事件が勃発した。9月2日午後3時に、政府は東京市に戒厳令を布く。9月5日に、臨時審査救援事務局警備部は、日本帝国に不利な宣伝や風評を極力防止すること、殺戮事件の発表に関して、決して官庁名を用いないことを極秘の打ち合わせをした。9月15日に戒厳令が解除された。
9月16日に憲兵隊大尉の甘粕正彦は、大杉栄、その妻の伊藤野枝、6歳の子供の甥橘宗一の3人を密かに手で頸をしめて扼殺させた大杉事件が勃発した。甘粕正彦は短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦直後に、服毒自殺した。
9月1日正午に、富士火山帯を中心とする激震により、沼津以東、御殿場、箱根、熱海方面から横須賀、横浜、東京方面にかけての惨害は、想像を絶し、家の倒壊、死傷者おびただしく、いたる所に大火災を生じ、通信機関はほとんど全滅、混乱はその極に達した。9月1日には、人体に感じた余震は約114回以上に及んだ。関東大地震はマグニチュード7.9と推定される。近代化した首都圏を襲った唯一の巨大地震であり、南関東から東海地域に及ぶ地域に広範な被害が発生した。死者は約105,385人、全潰全焼流出家屋は約293,387に上った。電気、水道、道路、鉄道等のライフラインにも甚大な被害が発生した。