日本の博多港を間近にして、父親が亡くなった。残された二人の子供とともに、母親は父親の死体が沈んだ海面をいつまでも見つめつづけた。毛布にくるまれた父親の死体が海に投げ込まれて消えた。「どうぞ安らかに」と引揚者のみんなが合掌した。
ここまで来たのに。コロ島を出港したその夜から、安心のあまり気がゆるんだのか、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。乗船する前に死んだ子供を、日本へ連れてて帰りたい一心で、毛布に子供の死体を包み隠した母親もいた。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。「ボーッ」「ボーッ」「ボーッ」と悲しみに満ちた低く長い汽笛を鳴らしながら、死体が沈んだ周りを、引揚船は大きく旋回した。一回、二回、三回と旋回をくりかえすと、引揚船はその海場を離れて行った。「せっかく博多港のここまで帰って来たのに」。遺族の無念さがこみあげてくる。
中国の葫芦島(コロ島)の埠頭の倉庫の下に約5百から6百人の引揚者が、日本に引き揚げる乗船を待機した。銃剣を持った中国軍兵士が、引揚者の荷物を刺しては検閲した。1946年7月16日午前7時から、乗船の許可が降りて、日本への引揚者は「白竜丸」に乗船した。その一週間も前から軒下で待機していた引揚者の数名が絶命していた。コロ島から約4日目の朝に博多港付近まで引き揚げた。
葫芦島在留日本人大送還は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任にて、葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業であった。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環であり、中国では「葫芦島日僑大遣返」と呼称した。1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議で日本民間人人の帰還移送が決まった。遼寧省の錦州の西南に位置するコロ島は、アメリカ海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置した。1946年5月11日に、アメリカ・国民・共産の3者の協定が締結され、コロ島が確保された。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、1946年末までに約101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された。満州から引き揚げできずに、約24万人が死亡した。