太平洋戦争のマリンの戦い直後の1943年11月に、艦船のリスカム・ベイ(Liscome Bay)空母の2人の水兵がアメリカ国旗で覆われて、沿岸警備隊の船から太平洋の海上に埋葬された。USSリスカム・ベイ(CVE-56)で死亡した2人の下士官が、USSレナード・ウッド(APA-12)の乗組員によって海上に埋葬された。救助された乗組員のうち2人が死亡して、海に埋葬された海洋葬により、船、ボート、航空機などから死体を海洋に埋葬した。
1943年11月24日午前5時10分に、護衛空母で旗艦のUSSリスカム・ベイは、マキン付近に到着した日本軍の潜水艦I-175によってわずか23分間で撃沈された。I-175が発射した1本の魚雷が、リスカム・ベイの航空機爆弾備蓄庫を爆発した。リスカム・ベイは、魚雷の命中や破片の損傷から保護されない爆弾格納の最悪の場所に命中した。爆発は艦の半分を崩壊させた。機関室後部の前部隔壁より後方では誰も生存していなかった。爆炎が収まった時にはリスカム・ベイ」の後半部分の水兵は全員爆死した。 大爆発が艦全体を飲み込み、急速に沈没した。リスカム・ベイの攻撃が、マキンの戦いにおけるアメリカ軍の死傷者の大半を占めた。リスカム・ベイの約916名の乗組員のうち、約644名(将校53名、下士官591名)が死亡した。救助されたのは約272人であった。
マキンの戦いが、太平洋戦争中の1943年11月20日から11月23日にかけて、ギルバート諸島ブタリタリ環礁で勃発した。アメリカ軍はマキンの完全占領には4日間を要して、地上軍兵力よりも海軍の死傷者の方がかなり多かった。日本軍は約395人が戦死して、アメリカ軍が約763人が戦死した。アメリカ軍にとっての損害の比率は過大であり、太平洋戦争後半はアメリカ軍の攻勢期でも、アメリカ軍側の人的損失が日本軍側を上回った数少ない戦いとなった。