ボスニア・ヘルツェゴビナの北部にて、1993年5月にボスニア軍はブルチコ郊外のラヒック村付近でセルビア軍兵士の攻撃を食い止めた。紛争で殺害されたセルビア軍兵士の死体は、ボスニア軍の戦場からトラックで運ばれてきた。ボスニア軍がセルビア軍兵士の死体を後方にトラックで運搬された。死体はトラックの荷台から滑り落ちて来た。運転手はトラックの窓から身を乗り出して後方を見た。トラックの荷台には、死体運搬用の手押し車があった。頭を垂れて死体が滑って、死体はまもなく崩れ落ちる。トラックの運転手に手で合図して、後方にある農場にトラックを向かわせて死体を捨てさせた。農場に捨てられたセルビア軍兵士の身元を確認されて、翌日にセルビア軍に死体は返還された。
セルビア軍が支配する要塞都市ブルチコは、戦略的に重要な地域であった。ボスニア軍は、ブルチコをめぐり断続的な道路の奪い合となった。ボスニア軍がブルチコの道路を遮断すれば、セルビア軍はボスニアとクロアチアの一部を支配が困難となる。ブルチコをめぐる戦いは、ボスニア戦争の中でも最も激しい戦闘となった。1992年5月に、人口の75%以上を占めていたイスラム教徒とクロアチア人が強制退去させられた。1993年5月に、ボスニア軍は、ブルチコのセルビア軍に攻撃を仕掛けて、ブルチコの南を占領した。セルビア軍がボスニア東部からブルチコに移動していた。ボスニア軍には回廊を遮断しても、セルビア軍が戦車を使って奪い返してくる。ボスニア軍がブルチコの攻勢を成功させれば、ユーゴスラビア軍の本格的な参戦を促すことになる。ブルチコでは、セルビア軍は南にボスニア・ムスリム民兵、ボスニア・クロアチア軍の部隊が北西を固めている。ブルッコの真北にはサヴァ川を挟んでクロアチア共和国がある。
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は旧ユーゴ連邦の一部を構成した。1991年当時の約430万人の人口の民族構成はボシュニャク(ムスリム,イスラム教)系約44%、セルビア(ギリシア正教)系約33%、クロアチア(カトリック教)系約17%だった。旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中で、1992年4月に同共和国の独立を巡って各民族間でボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。約3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を巡って、戦闘を繰り広げた結果で、死傷者約20万人(死者数は兵士約57,358人、市民約38,177人)、難民・避難民約200万人と推定される戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。
1995年12月に、デイトン和平合意の成立により戦闘は終結した。ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア系住民が中心のスルプスカ共和国という2つの自主独立体から構成される一つの国家(首都はサラエボ)となった。それぞれの自主独立体が独自の政府を有するなど分権化された。