太平洋戦争のニューギニアにて、日本軍兵士はサラモヤの戦いでアメリカ軍の砲撃により殺害された。灼熱の森林地帯で殺害された死体の周囲には蝿と蛆虫が湧いて、死臭が漂って腐敗していた。増援物資の補給も途絶して枯渇して、弾薬の深刻な不足に陥っていた。ジャングルの中で悲惨に虐殺されて死体は放置された。
ラエ・サラモアの戦い(Battle of Lae-Salamaua, 1943年1月7日から9月16日)は、第二次世界大戦中のニューギニアにて勃発した。1942年3月にニューギニア島東部の要地であるラエとサラモアを占領していた日本軍を、オーストラリア軍を主体とする連合軍が攻撃し、ラエとサラモアを奪還した。日本軍は標高約4,100メートルのサラワケット山系を越えて撤退した。ニューギニアの連合国陸軍の大多数がオーストラリア軍兵士であった。
オーストラリア軍とアメリカ軍は、日本軍の2つの主要基地のあるラエとサラマウアの攻略を目指した。ワウを攻撃していた日本軍がムボ周辺に撤退したために、オーストラリア軍はムボを占領して、サラマウアに向けて北東に侵攻する中で、数カ月にわたり戦闘が継続した。連合軍はサラマウア周辺で日本軍への攻撃しながら、9月初旬にはナドザブの空襲とラエ近辺に上陸を開始して、東と北西からの攻撃でラエを占領した。ラエ周辺の戦況が絶望的になるにつれて、サラマウアの日本軍は撤退して、1943年9月11日にサラマウアが占領され、直後の9月16日にはラエが陥落した。ラエ・サラモアの戦いの犠牲者は、オーストラリア軍兵士は約1,772人が戦死あるいは戦傷または行方不明となった。アメリカ軍兵士は81人が殺害されて、約396人が戦傷した。それに対して、日本軍は約11,600人が戦死あるいは戦傷または行方不明となった。
日本軍が、ココダ・トレイルの戦い(1942年7月23日から11月13日)にて、日本軍はポートモレスビー侵攻が失敗した。1943年1月22日までにブナとゴナの橋頭堡は占領されて、日本軍がサマラヤとラエに向かって退却した。日本軍は脅威にさらされ、1943年1月にはサラマウアから約30マイル離れたワウから撤退した。3月には日本軍の輸送船団は連合国軍機に探知されて撃沈して、約3,000人の日本軍兵士が溺死した(ビスマルク海の戦い、1943年3月2日〜4日)。日本軍は、ラエ・サラモヤ地域に約11,000人の兵士で防衛したが陥落した。しかし、サラマウア基地の港や飛行場は貧弱であり、戦いの犠牲は無駄のようになった。