三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監室で切腹自殺をした直後の制服をかけた死体と、切腹自殺の時に介錯されて断頭されて、鉢巻を締めた生首が縦に置かれた。総監室に持ち込んだ日本刀や短刀などが散在していた。赤絨毯の上が血の海となった。国内外ともに、憶測と論争から騒然となった。
著名な作家であった45歳の三島由紀夫は、1970年11月25日に、自分が主宰する「楯の会」のメンバー4人と、防衛庁(現防衛省)自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で、午前11時に総監を拘束し人質にして、自衛隊員と乱闘して総監室に立てこもった。自衛隊員を集め、憲法改正のため自衛隊の決起いわゆるクーデターを呼びかけた。しかし賛同を得られないと判断した後に、自ら切腹自殺をした。三島由紀夫は、1968年頃から軍事的な侵略に備える軍隊的な規律を持った民間防衛組織である楯の会を結成していた。
総監を人質にして、市ヶ谷駐屯地にいる自衛官全員と、市ケ谷会館に待機している「楯の会」の会員を、駐屯地に集合させて、三島由紀夫に演説をすることを自衛隊に強要した。午前11時40分に約800人の自衛隊員が本館前に集合した。12時に三島由紀夫が、バルコニーに立ち、スピーカーも無く演説を始めた。三島由紀夫は自衛隊員に向かって、「自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略) 諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫し、憲法改正などを目的としたクーデターの決起を促した。ヘリコプターの騒音と、自衛隊員の怒号やヤジなどによって、演説はほとんど聞けなかった。12時10分に、演説を諦めて「天皇陛下万歳」を3回繰り返して、総監室に戻った。総監室に戻り、上半身を裸になり、正座して切腹して自殺するために、短刀を左脇腹に突き刺し、右へ引き切腹した。楯の会のメンバーが、三島由紀夫の首を日本刀で断頭して、身体が前面に倒れた。楯の会のメンバーの25歳の一人が切腹して、残った3人のメンバーが日本刀で断頭した。12時30分に、残った楯の会3人は、総監室で現行犯で警察に逮捕された。3人は嘱託殺人等で、懲役4年の実刑判決と裁定された。
東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という回答であった。海外は、日本軍国主義の象徴と復活の恐れを議論して注目した。