陸軍大臣であった東条英機によって、1941年1月8日に『戦陣訓』が日本軍に対して、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名残すこと勿れ」と告知された。太平洋戦争において、日本軍は1943年5月12日から5月29日までアメリカ軍とアッツ島の戦闘が勃発して、日本軍兵士は全滅した。大本営は、救援が不可能となり、追い詰められた日本軍に対して5月23日に玉砕を命じた。「最後に至らば潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」と打電された。最後の5月29日に「共に生きて捕虜の辱しめを受けざる様覚悟せしめたり」と電報して、夜間にアメリカ軍に壊滅的な突撃をした。
大本営は初めて玉砕による敗北を初めて公表した。5月31日の朝刊には、「アッツ島に皇軍の神髄発揮。部隊長ら全将の壮絶・夜襲を刊行玉砕。敵2万・損害6千を降らず。」と日本国民に通知した。初めて玉と砕けて散る美化されたアッツ島の『玉砕』を通知されて、寂寥感ではなく哀愁から玉砕の魅力に酔いしれた。
それ以後の太平洋戦争において引き続いて沖縄戦から終戦に至るまで、日本軍は玉砕してアメリカ軍に敗北して敗退し続けた。しかし、大本営はアッツ島は玉砕と公表したが、それ以後の太平洋戦争では『総員壮烈なる戦死』と発表した。さらにサイパン島や沖縄では、民間市民も巻き込んで玉砕の戦闘をした。
太平洋戦争中の 1943年11月にギルバート諸島のタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発した。11月 20日にタラワ環礁に約5,000人のアメリカ軍が上陸した。約 4700人の日本軍が、水ぎわで激しい抵抗して戦闘は4日間続いた。 11月25日に日本軍は最後の突撃により玉砕した。11日24日からアメリカ軍は残存した日本兵を掃討した。
タラワ環礁で恐怖と悲惨な最後の日本軍の突撃による玉砕した死体が散乱した。 |