原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。被爆者は、広島湾から沖合に約3kmの似島に陸軍似島検疫所に護送された。広島原子爆弾が炸裂した直後から、被爆者を収容所して救護した。8月12日からは野戦病院に転換した。被爆地における野外病院を野戦病院と呼称して、負傷者を野外で治療する大規模な移動式施設となった。その後には救護所として機能した。当初に収容された被爆者は、一部は宇品で仮手当を受けては、宇品港から海上輸送された。多くの重度の被爆者は、治療の甲斐もなく約7割は原爆死した。
原子爆弾による熱傷は、従来の空襲による焼夷爆弾や火災とは異なる。炸裂時に放出された閃光に直接に身体に面した箇所だけに発症した。陸軍軍医学校の調査報告では、広島原子爆弾が炸裂時に、陸軍船舶通信隊の一員は、爆心地から南に約1.8kmの千田町国民学校の校庭で整列していた。裸体あるいは半裸体で校庭に隊列を組んでいた。気をつけから休めの姿勢で、船舶通信隊の幹部からの訓話を拝聴していた。隊列の前方に対して、左側から強烈な閃光を浴びた。瞬時に、隊員はその場にうつ伏せあるいは防空壕に避難した。校庭で整列していた隊員らは、主に左側面のみに熱傷を受傷した。
1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して,日本陸軍船舶司令部である通称「暁部隊」が,重傷被爆者を救護する拠点として似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容した。8月6日午前10時頃から広島市内で被爆した負傷者が、船で続々と似島に運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等と似島の島民による必死の救護が24時間行われた。最大収容者数は約1万人余に達した。証言や発掘された遺骨数から,収容された被爆者のうち,約7割が原爆死したと推計された。1945年9月頃に検疫所職員等が馬匹検疫所構内の遺骨を集めて、千人塚の供養塔が建立された。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体が,広島平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。
似島検疫所は、日清戦争以後に海外の戦場から帰国してきた戦傷兵士を伝染病などの予防のために検疫した。日清戦争開戦前の1894年6月10日に山陽鉄道が広島まで延長され,日清戦争の宣戦布告後には8月4日に軍用宇品線が完成した。9月15日に大本営を東京から広島に移転して,明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,正式に遷都して広島が臨時首都となった。日本軍が広島に集結して、宇品から出兵した。広島への帰還兵も同様に多数となった。地勢的に似島が宇品と対峙する近距離にあった。似島には山水が確保できて、伝染病などを予防する検疫業務に利便性が伴った。