日中戦争において、日本関東軍が占領して1932年3月1日に建国した満州国のチチハルで、日本警察局が東北抗日義勇軍の司令官である34歳の趙尚志を、1942年2月12に虐殺した。日本警察は、趙尚志の頭部の周辺だけを検死して、死体は付近に投げ捨てられた。日本秘密警察が東北抗日連軍の情報を収集して、東北抗日運動をする満州市民を迫害して弾圧した。日本秘密警官が、東北抗日義勇軍の内部に侵入して、趙尚志の所在を探った。1942年2月12日に東北抗日義勇軍が日本警察署と襲撃した。東北抗日連軍に潜伏した秘密警察に射撃されて重症を負わされた趙尚志は、日本警備隊が包囲して虐殺された。趙尚志は、農民から工業学校で革命思想に感化されて、1925年2月に共産党に入党した。1926年から2回逮捕と投獄されて、1931年9月18日に満州事変が勃発した九・一八事変で脱獄してから抗日逃走の指揮を取った。
関東軍は、満州国の強制収容所として遼寧省の郊外で撫順戦犯管理所を1936年に設置した。主に中国人の抗日戦犯と愛国主義者などを監禁した。抗日中国人や満州住民らを討伐して、監禁して虐殺した。中国人農民を一箇所に集める郷屯合併して、監禁と虐殺して満州を弾圧した。趙尚志を虐殺した日本警察の署長であった田井久二郎は、日本人戦犯として1945年に極東シベリア地区の捕虜収容所に監禁された。1950年7月14日に中国はソ連から約969人の日本人の戦犯として引き取った。国民党の戦犯約1,300人も監禁された。遼寧省の市郊外の撫順戦犯管理所に連行して監禁した。田井久二郎は、1956年7月に日本人戦犯として懲役15年を判決されるも、わずか約1年間以内の1957年5月の満期の相当前に釈放された。日中戦争中で中国を侵略して、中国人に対する多大な虐待と虐殺を日本人戦犯は容疑された。中国では国際法に違反する犯罪行為の成立に従事した日本人は誰でも、個人の責任を負って、捕虜ではなく、戦犯として処罰された。釈放されず監禁されて生存していた日本人戦犯は1964年3月から日本国土に引き揚げられた。