カンボジアのカンポット州立病院に地雷で右下腿が吹き飛ばされて、大量出血したカンボジア農民の女性が1993年にトラックで護送された。ベトナム国境から約50Kmのビエルボン村から女性の農民である23歳のトン・フォカさんすが、十分な医療設備や医療職も乏しい病院で、関係者に緊急的に輸液をされながら、ストレッチャーの上で両下腿の切断の処置をされた。薪を採取中に地雷に被爆した。地域の家族や関係者が心配そうに動揺して取り囲み見守った。カンポット州立病院でも当時は、約20人の地雷の犠牲者らが搬入された。無差別に民間市民に対しても、予告もなく突如に地雷が反応して爆発した。地雷は、戦争後にも引き続き民間市民を巻き込む悲惨で残虐な兵器が潜伏した。たとえ生存しても、四肢欠損した障害者となり、十分なリハビリテーションや社会保障もなく露頭で物乞いや盗人をしていた。地雷に囲まれた地雷原となった農地でも、農民らは生活と生命の維持のために地雷を避けれない。カンボジア国内だけでも、世界中の約1割にも達する約1,000万個以上もの地雷が埋設された。カンボジアでは地雷で四肢を損失した人数は約2万人を超過している。地雷に接触して爆発した死亡率は、約5割である。約5万人が犠牲者になっている。地雷の犠牲者の約80%は民間市民であり、子供は致命的で最も被害を受けている。子供に最も危険なのは、子供の四肢を僅かな圧力でさえ爆発する対人地雷である。
1997年12月に、NGO地雷を禁止する国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞した。同時期に、国連で地雷の全面禁止条約であるオタワ条約を164カ国が調印した。日本は1998年9月30日に調印した。しかし、アメリカ、ロシア、中国など36カ国は未調印である。オタワ条約には、対戦車地雷、クラスター爆弾、対人指向性地雷は含まれない。地雷は、アメリカ南北戦争頃から敷設され始めた。特に第一次世界大戦で、戦車が開発され始めてから、戦場で対戦車兵器として使用され始めた。さらに第ニ次世界大戦以降には、戦車が強力になるほど、地雷も高性能となった。第二次世界大戦だけでも、約3億以上もの地雷が敷設された。次第に、人間に対しても反応して爆発する対人地雷が、特にベトナム戦争以後に膨大な殺傷力のある地雷が、ジャングルだけでなく農地や山林などにも敷設された。ゲリラ戦に対抗するために爆撃機から投下されて、至るところの地表に散布された。東南アジアでは暴雨により泥沼の地中で地雷が変動した。そのために潜伏している地雷の場所が不詳になった。さらにベトナム戦争後のベトナム軍が侵攻したカンボジア内戦では、全土にわたり地雷が散布された。地雷を除去するも、一方で新たな地雷が埋設されて、その場所の特定が困難となっている。地雷を製造していないカンボジアに敷設した地雷は、アメリカ・ソ連・中国・ベトナム・アメリカ・ドイツ・フランス・チェコ・ベルギー・ブルガリア・南アフリカ連邦など海外からの多国籍の移入品である。