ノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所にて死亡した囚人の墓が、1945年5月3日に2列に並べられた。ノルトハウゼン強制収容所で殺害された囚人の死体は、アメリカ軍の命令で民間ドイツ人が掘った集団墓地に埋葬された。1945年4月10日に、アメリカ第一軍の部隊がノルトハウゼンに入った。アメリカ陸軍の第一第三機甲師団と第104歩兵師団の兵士たちによってノルトハウゼン強制収容所は開放された。ナチスの元奴隷労働者である数百人の死体が発見された。骸骨と同然となった死体は、集団埋葬するために墓穴を掘ることを強制されたドイツ民間人によって埋葬された。
4月3日に、連合軍の爆撃はノルトハウゼンを標的にした。爆弾は小営倉を直撃して、約1,500人の捕虜が死亡した。ベルリンの南西約193kmに位置するノルトハウゼン強制収容所は、ナチスのVミサイル兵器の製造拠点であった。4月4日に、ナチスはドラ・ミッテルバウからベルゲン・ベルゼンとラーヴェンスブルックへの耐え難い死の行進を強制された。4月7日、連合軍の第一軍はライプチヒとドレスデンに向けて東進を開始して、第七軍団はヴェーザー川を渡った。散発的な抵抗を受けながら、第7軍団は東進し、南ハルツ山脈に突入した。4月11日、第104歩兵師団はドラ収容所に、第3装甲師団はボエルケ・カーゼルネ副収容所に入った。死体や死にかけた人たちが散乱し、互いに積み重なった。親衛隊に見捨てられた約3,000人の死体と約750人のやせ細った生存者がいた。4月12日に、ルーズベルト大統領の死去が発表されて、連合軍にとり沈痛な出来事はさらに悪化した。
ノルトハウゼン強制収容所は、コンクリートでできた巨大な施設と格納庫の複合体であった。衛生設備はまったくなく、囚人は夜も昼も、死ぬまで食事もとらずに格納庫内にいた。健康な状態の人間でさえ、極度の衰弱に陥るのが早かった。すでに疲れ果て、病気にかかった囚人にとって、残酷な生活環境は、悲惨であり、即死を示唆した。