太平洋戦争において、アメリカ軍が上陸した1943年5月12日から5月29日までのアッツ島の戦いで日本軍兵士は全滅した。5月29日の真夜中に、最後となる約1,000人みの日本軍兵士の部隊が、「工兵隊の丘」にて残酷なバンザイ攻撃でアメリカ軍の陣地を襲った。突撃に衝撃を受けたアメリカ軍の後部隊は、すぐに日本軍兵士を白兵戦で撃退した。夜明け頃には、アッツ島の荒野に日本軍兵士の全員の悲惨な死体が積み重なり散乱していた。わずか19日間の戦闘により、日本軍兵士は約2,351人以上が戦死して、最後に生き残っても自殺して、残存者は約28人の捕虜のみとなった。上陸した約12,000人のアメリカ軍兵士のうち、約549人が死亡して、約1,200人以上が戦傷や病気に罹患した。太平洋諸島の戦闘では、退却する場所がなかった。日本軍にとり降伏は非常に不運であり不名誉であり、兵士は捕えられるのではなく自殺するように指示された。太平洋戦争当時に日本軍兵士の全員が死滅する「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは、1943年5月29日のアッツ島玉砕である。日本軍の大本営は、アッツ島の戦いは全滅する玉砕にもかかわらず、アリューシャン諸島の作戦を感動的な虚偽の叙事詩として賛美した。太平洋戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年のアッツ島玉砕である大本営は、アッツ島の戦い中の5月21日に、アッツ島の守備隊を放棄して見殺して、までアメリカ軍が上陸していないキスカ島の守備隊の撤退を決定した。アッツ島の玉砕を戦争遂行への天意の指揮刀と解釈して、勇士諸氏の奮闘を大忠大孝と惜しみなく讃えながら、戦争への勇気を称賛した。
アッツ島は、北太平洋のアラスカのアリューシャン諸島の最西端である。アッツ島は、火山や山岳地帯もあり、悪天候で樹木のない不毛の地で無価値な島であった。日本軍は、1942年6月7日にアメリカの領土であったアッツ島を占領していた。アッツの戦いは、アメリカの領土で戦った第二次世界大戦の唯一の戦いである。同時に日本軍が中央太平洋で6月4日から7日まで惨敗するミッドウェイ島の戦いの直前であった。アラスカ地方の悪天候による降り注ぐ雪と雨、凍える寒さと泥などにより凍傷と壊死して、相互の兵士らは十分な装備も補給もなく悲惨な戦闘となった。最後の全滅となる突撃の前に、野戦病院の日本軍の衛生兵は手榴弾を渡して戦傷者を自滅に導いた。
「夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。お大事に。さようなら。
敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」(辰口信夫、33歳、軍医)