第一次世界大戦の西部戦線のモンスからマルヌへの撤退戦においてイギリス遠征軍が遂行した最も英雄的な行動の一つは、1914年9月1日にコンピエーニュ近郊のネリーの戦いである。栄光の代償として、イギリス軍ネリー砲兵隊の兵士が殺害された死体が、ネリー村に両手を掲げて死後硬直した。イギリス軍の第1騎兵旅団と共に第3軍団の撤退を援護していたイギリス軍の王立騎兵砲兵隊の単一砲兵隊が、数時間にわたり2倍もの兵力があるドイツ第4騎兵師団全体を食い止めた。この砲兵隊は1914年当時、13ポンド砲6門を装備しており、「L(ネリー)砲兵隊、王立騎兵砲兵隊」として知られる。ネリーの戦いの犠牲者はイギリス軍は135人が死傷して、ドイツ軍は死傷者は不明である。
王立騎兵砲兵隊L中隊は、騎兵旅団に随伴してネリーへ向かった。砂糖工場から東と南へ延びる二つの道路を封鎖する命令を受けた。部隊は9月1日0430時に行軍を継続した。灼熱の太陽の下で疲れ切った兵士と馬は休息についた。小さな村と野営地群、東西を護る丘陵の狭い谷底には静寂が漂った。砲兵隊は馬具をつないだ状態で集団待機中だった。午前5時直前に部隊の唯一の望みは「素晴らしい朝食を腹いっぱい食べること」であった。
家に入り足を踏み入れた途端に、高爆発弾が村の上空で炸裂し、ネリーの東側を見下ろす高台から砲火と小銃の轟音が炸裂した。霧の中でドイツ騎兵部隊に遭遇し追撃を受けて、ネリー北方の高地偵察に派遣した部隊が撤退した。時刻は0505頃に、第1騎兵旅団は完全なる奇襲を受けていた。イギリス軍の騎兵隊と騎兵砲兵隊が不利な状況に置かれ、村周辺の野営地に重砲・機関銃・小銃の激しい砲火が降り注いだ。各部隊は効果的な抵抗を試み、近隣部隊からの援軍が到着するまで持ちこたえた。