2/11/2025

During the Vietnam War, on March 9th 1965, in Can Tho, in the province of Zala, Vietnam, a soldier from the South Vietnamese Liberation Front was killed by the American army after attacking with a basket full of grenades in his hands. His body lay face down in a field.

ベトナム戦争にて、1965年3月9日にベトナムのザライ省のカンナックにて、籠いっぱいの手榴弾を手に攻撃を仕掛けてきた南ベトナム解放戦線の兵士が、アメリカ軍に殺害されて死体がカンナックの野原にうつ伏せに倒れた。ベトナムの中央高地に位置するカンナックには、 アメリカ軍兵士と特殊部隊によって訓練された山岳民族の兵士約400人が監視の任務に就く野営地があった。3月8日に、その野営地を約1000人に上る共産勢力の兵士たちが、銃や籠いっぱいの手榴弾を手に攻撃を仕掛けてきた。翌朝の3月9日には、野営地を取り囲む有刺鉄線には100人を超える解放戦線の兵士たちの 死体がぶら下がっていた。アメリカ軍側の死者は33人であった。

 1965年、アメリカは南ベトナムの軍事力を急速に増強した。ベトナム戦争で、共産主義が支配するベトコン(VC)が多くの農村部に影響力を持った。南ベトナム政府がベトナム戦争に敗れつつあった。ローリングサンダー作戦で、アメリカ軍は段階的かつ持続的な航空砲撃作戦であった。アメリカ海軍とベトナム共和国空軍(RVNAF)は、1965年3月2日から1968年11月2日まで北ベトナムを空爆して、ベトナム戦争は泥沼化した。

 1965年3月19日号のアメリカ雑誌『タイム』には、アメリカ軍の勝利と掲載された記事「カンナックの勝利」には、殺害された一人の北ベトナム軍の若い中尉の遺品にあった日記が紹介された。1964年から続いた「ホーチミン・ルート」をたどる険しい旅路の様子を記した。北ベトナムがラオスとカンボジアを経由して南ベトナム解放戦線に補給物資や兵員を運ぶためにジャングルを開拓して作った補給路である。「私の人生はとても辛い。いつも飢えており、四六時中に爆撃機が落下する爆弾にさらされている」という言葉を残した。