日本人遺族らと厚生省が、ソ連において強制連行と強制労働の犠牲となった日本人の遺骨収集をした。埋葬地も極秘で発見と発掘が困難となるも、1990年10月のソ連のチタ州ドラビアンナだけでも、約56柱の遺骨が収集された。遺骨のDNA鑑定により、2010年までに約828柱が鑑別されて、遺族に返還された。
ソ連軍は1945年8月9日に日ソ中立条約を破棄して、満州に侵攻した日ソ戦は8月15日に日本が全面降伏で終結した。しかし、満州に残された関東軍兵士や日本人捕虜は、貨車に詰め込まれて主に「シベリア抑留」された。ソ連領内の約854カ所の強制収容所などに強制連行と抑留して、強制労働を強要した。ソ連は、終戦後に満州と朝鮮半島などから強制連行した日本人兵士と民間市民を、ソ連領内の劣悪な環境下で強制労働させた。極寒の中で、食糧不足と栄養失調、懲罰と虐待から、膨大な日本人が死亡した。強制労働が困難となるほど、食糧を減らされて、さらに衰弱して死亡した。シベリア抑留により、日本人は約1割の約60,000人が死亡した。
中国の満州を占領したソ連軍だけは、スターリンの命令で、日本人捕虜に対して強制労働を使役した。関東軍兵士から民間市民の日本人も男狩りでシベリアなどに強制連行された。抑留された地域と人数は、タイシェトからコムソモリス・ナ・アムーレのバム鉄道の建設に約150,000人、シベリア沿岸地方に約75,000人、ハバロフスク地方に約65,000人、チタ州に約40,000人、イルクーツク州に約50,000人、ブリヤード・モンゴル自治区に約16,000人、クラスノヤルスク地方に約20,000人、アルタイ地方に約14,000人、カザフ共和国に約50,000人、ウズベク共和国に約20,000人が強制連行された。推計では約575,000以上の日本人が連行された。アメリカ軍やイギリス軍は、戦争犯罪者を除いて、可及的に早期に日本に送還した。中国で捕虜になった大部分の日本軍兵士は、早期送還を措置された。しかし、一部は国共内戦に編入されて巻き込まれた。
ソ連は、満州国から朝鮮半島まで占領して、北緯38度線を境に、北部をソ連占領区、南部をアメリカ占領区とした。ソ連軍は、終戦時には北緯38度以北で捕虜になった日本人兵士と民間市民を、強制連行した。終戦後の8月18日に、ソ連は千島列島にも侵攻して占領して、占守島と隣接する幌筵島に駐屯していた約23,000人も、ソ連領内で強制連行と強制労働させた。アメリカ軍のGHQ占領下の日本政府は、1945年11月からソ連の強制連行を、アメリカを通じて早期帰還を要求した。1946年5月に、ソ連の抑留に対して、強行な要請をしてから、次第に送還を応じた。12月8日の約5,000人から継続的に送還されて、最後の引揚船である興安丸が1956年12月26日に舞鶴港に入港して、約473,000人が帰還した。