ソビエト軍は1945年8月9日により、終戦直前に満州から朝鮮半島北部と北方四島などに侵攻した。終戦で戦地で降伏した約65万人もの日本軍兵士の約81%がシベリア、約14%が中央アジアの強制収容所に抑留された。シベリアのうちで、沿海地方に最大の約14.6%となる約66,470人が収容された。
シベリアに抑留された日本軍兵士では、重篤な栄養失調が、死亡者数の約92%を占めた。1日は500カロリー以下で、飢餓による低栄養とシベリアの過酷な厳しい酷寒、さらに重労働から、活動も体力も失って、やせ衰えた。低栄養が重篤になると、顔から前身の浮腫、ひどい痩せ、無気力や無感動の精神機能の低下に陥る窮極の栄養失調者(ドハジャーガ)から餓死に至る。特に飢餓こそが起源となり、重労働と酷寒が追い打ちして、多大の日本軍兵士である囚人が犠牲となった。
抑留された日本軍兵士は、1946年1月には約6,881人と最大の月別の死亡者数となり、約4割が栄養失調よる死因であった。ソ連は、日本軍兵士の囚人が食糧が不足していても放置して、日本に帰還させなかった。強制労働のノルマによって約80%以下になると、食糧の配給が増減した。1947年12月11日の内務省令でノルマ給食制度が廃止されるまで、営倉に収容されて懲罰が科された。虚弱にや病弱になるほど、逆に一層の低栄養に陥った。抑留者を牛馬のように死するまで酷使されて、ノルマ達成するために。働くほど体力を失って早期に死亡した。シベリア抑留者数の内訳は、捕虜収容所に約386,972人、作業大隊に約53,521人、特別病院には約142,000人を配置された。
太平洋戦争の終結後の1945年9月15日に、マーシャル諸島におけ日本軍病院で、日本海軍兵士が窮極の栄養失調者(ドハジャーガ)の飢餓に陥っていた。