ドイツ軍は1941年6月22日ドイツ・ソ連国境で一斉にソ連に侵攻が開始された。開戦当初は奇襲により各戦線でドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団でレニングラードを包囲し、中央軍集団は開戦1ヶ月でスモレンスクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜となった。ドイツ側の損害も甚大であり、1939年から1940年6月までのドイツ軍は死傷者数を上回ることもあった。
8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊を南部に向けて、南方軍集団を支援することでウクライナに展開した数10万のソ連赤軍部隊は壊滅して陥落した。首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後の1941年9月にモスクワ攻略を開始した。ドイツ軍はクレムリンまで10数kmまで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃を止め、赤軍も猛抵抗してドイツ軍の攻勢は頓挫した。電撃戦を続けたドイツ軍には初めての撤退であった。ドイツ軍は補給路が延び切って冬季装備の前線部隊への配送が滞り、各地で進撃の停止を余儀なくされた。
ソ連側は、日本軍が参戦しないと確信し、10月以降に満州やシベリア地区の軍隊をモスクワ周辺に投入した。ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の約35%、100万人におよび、1941年だけで戦死者は20万人に達した。ドイツ国防軍はモスクワ前面からの撤退を訴えも、ヒトラーの厳命により戦線は無理に維持させた。ソ連側は1941年12月初旬から反撃を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から撤退させた。ヒトラーの死守命令により撤退できないドイツ軍は、必死の抵抗と稚拙な作戦により、ソ連赤軍から各個に撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線の崩壊を回避した。ソ連側は焦土作戦で、ドイツ軍の現地調達の手段を奪い、更にドイツが占領した地域住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱でドイツ軍の補給を妨害した。軍事的工場や労働者をドイツの手の届かない内陸部にまで疎開させた。