ナチス・ドイツ軍の東部戦線においても、多数のドイツ武装親衛隊が戦死した。ドイツ武装親衛隊は、しばしば攻撃の先頭に立たされた。さらに最も困難な戦況下に配置された。ドイツ武装親衛隊の戦死傷者数は、ドイツ国防軍に比較しても膨大に拡大した。
ナチスの突撃隊(SA)が、1921年に勢力拡大をしたナチ党の防衛で組織化された。SAは街頭での闘争や示威行進などで市民に恐怖感を与えた。SAは元陸軍大尉のエルンスト・レームが司令官になった。SAは無制限に隊員の受け入れ、ドイツ国防軍をしのぐ勢力に膨れ上がった。レームはSAがドイツ国防軍に代わる新正規軍を画策した。ドイツ国防軍は職業軍人の集団で、ナチの私的軍事組織SAを危険視していた。ヒトラーはSAを党の統制下に置くため、「長いナイフの夜」の1934年6月30日にヒトラーは、ミュンヘンでレームらSA幹部らを急襲し情け容赦なく処刑した。レーム事件で国民はヒトラーの断固たる措置を崇拝した。 代わって親衛隊(SS)が台頭した。SSははヒトラーの身辺警護を任務で、ハインリッヒ・ヒムラーはレーム事件を主導して実績を上げた。SSは1934年7月20日にSAから独立してヒトラー直属の機関となり、ナチ党の軍事部門の地位を確固した。SSの機能はナチス党の組織防衛の私兵的性格が強く、ドイツ国防軍とは分離した。SSはま保安諜報部SDを設け、党内外の反ナチス的人物の監視と摘発をした。