ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領したベトナムに広がり、ますます深刻になり、米不足は田舎から都市部、さらには首都ハノイにまで広がった。多くの地域で、家族全員、近所全体、あるいは村のほぼ全体が死亡した。日本軍兵士に発されないようにヴォー・アン・ニンは、ベトナム人の餓死者をみつめ、ひそかに写真として残した。
5年にわたる日本軍のベトナム支配によっておこったもっとも大きな災難は、食料危機であった半世紀以上におよぶフランス軍の植民地支配と5年間の日本軍の占領で、ベトナムナの生産と生活は悲惨なものになっていた。とりわけ日本軍の占領政策は、ベトナムナを食料や物資の補給基地と位置づけたために、生産された米は剥奪されて、トウモロコシなどの食用作物にかわって、ジュート(袋や綱の原料で麻の一種)の栽培が強制されて、食料不足に苦悩した。
1994年から1945年にかけてのベトナム北部一帯の冬は、特にに寒さがきびしく、ただでさえ食料難に苦しむ人びとにダブルパンチをくわえた。その結果として膨大な餓死者をだすことになった。その数は一説では200万人ともいわれている。にもかかわらず日本軍の倉庫には、米が山のように積み込まれた。
特にベトナムでアトダウの年の旧正月(1945年2月13日)に、空腹の隣には寒冬が到来して、首都ハノイでは気温4度まで下がった。泣き叫ぶ老婦人、壁の隅に群がってマットの上に横たわる裸の子供たち、裸で道端に横たわる父親や子供たち、ねじれた死体が散乱した。犠牲者数は、ベトナムの人口1,000万人未満のうち200万人が死亡した。ベトナムの北部山岳地帯では、軍隊と大衆が拠点を攻撃して地区の占拠に対して蜂起したが、人々に配布された穀物や塩の倉庫を破壊して、兵士とゲリラのために保管された。1945年3月から7月にかけて米倉庫の破壊を、ベトミンが扇動した。人々は穀倉を自ら破壊するように促され、税金を支払わないように扇動され、米の分配を要求された。