カンプチアの国境に接するタイ国内にあるカオイダン難民キャンプにおいて、子供が1986年11月の爆撃による弾片で負傷した。カンプチア難民の母親は、点滴をされて重症の負傷の疼痛で泣き叫ぶ子供の身体を、涙も枯れて悲しむ母親は看病した。国境周辺の難民収容所は、潜伏する反政府活動に対して、政権軍からの攻撃の対象となった。難民の子供たちは難民収容所内の生活と戦闘だけに閉じ込められた。
カオイダン難民キャンプは、タイと国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が運営した。カンプチアあるいは第三国に送還できる可能性のある難民だけを一時収容した。収容者は約160,000人にも達して、1980年1月24日に突如に新規者は閉鎖された。送還が困難な難民が増大して、タイは難民キャンプを縮小するために、1987年3月から残存していた約26,000人の難民全員も国境に悲惨な強制送還して、1993年3月3日に完全閉鎖した。
カンプチアの国境地帯にいる約25万人以上のカンプジア人難民らは、紛争による悲劇の犠牲者となる市民であり、政府ではない。最終的な難民保護も、カオイダインの閉鎖で失われた。タイ国境に収容された約25万人以上ものカンプチア難民は、紛争により甚大な被害を受けた。近年まで、タイからカンプチアに至るまで、人的保護を喪失して各勢力間の人質にされた。難民は、様々な暴力、強盗、強姦、さらに紛争の犠牲になった。
カンボジアは、1953年11月19日に初めてフランスから完全独立して、シアヌーク王制に移行した。アメリカ軍は北ベトナム補給ルートの空爆のため1970年3月にロン・ノル政権に反転した。空爆で約60万人が殺傷される動乱により、1975年4月に農本主義のクメール・ルージュ政権が転覆して、約170万人ものカンプチア人を狂気の虐殺した。1979年1月6日にベトナム軍が侵略して、ベトナム系のプノンペン政権に移行した。1982年に、反ベトナム・反プノンペン勢力であるクメール・ルージュの亡命政権(CGDK)が結成された。1987年12月に、相互が内戦の和平交渉を開始して、1991年10月23日にパリ協定が成立した。暫定統治機構(UNTAC)による平和維持活動(PKO)が介入した。総選挙により1993年9月24日に新憲法が交付された。1997年7月にクーデターが勃発するも、1998年11月30日に選挙でカンボジア立憲君主政権が結成された。