朝鮮戦争にて、北朝鮮地域の咸興で北朝鮮軍により虐殺された民間人の死体が井戸から引き上げられた。咸興虐殺事件は、1950年10月に、咸興で起きた集団虐殺である。金日成の指示によって北朝鮮軍により咸鏡南道の咸興市で起きた民間人の虐殺事件である。犠牲者は約1万2千人余り(拉致および行方不明者を除く)と推定された。主に銃殺、井戸生売場、透析を通じて虐殺したが、盤龍山の防空窟の場合には、爆死をさせた。咸興刑務所で約700人、忠寧塔地下室で約200人、政治保衛部がある3つの地下室で300人、徳山のニッケル鉱山で約6,000人、半龍山防空洞で約8,000人以上と推定された。
米国国立公文書によると、1950年9月15日~1950年9月28日の仁川上陸作戦以後、北朝鮮軍は北方に撤退して、北朝鮮地域でも多くの虐殺事件を行った。1950年6月25日から勃発した朝鮮戦争で、北朝鮮軍は南方の韓国に侵攻する時に、北朝鮮地域内の反抗者を選別するために政治保安部が無差別に予備検属(豫備檢束)をした。北朝鮮軍は、アメリカ軍と韓国軍が北方に圧迫して侵入すると、容疑者を虐殺した。1950年10月16日に、咸興改革派の共産党員は、すべての政治犯を殺害し、遺体を井戸に投棄した。識別を困難にするために、約4リットルの酸を井戸に注いだ。死体は井戸から引きずり上げられ、親族が死体を判別できるように横並びにした。
朝鮮戦争初期の南側で韓国軍警が同様な選別したように、北朝鮮政治保衛部と内務署などが、万歳デモや蜂起が起こる前に、予備検属者を虐殺した。黄海道新川では反対の状況が起き、韓国軍の反共治安隊が、北朝鮮当局の関係者と家族を先制的に虐殺したり拘禁した。以後、北朝鮮軍と韓国軍の双方で血の報復が大量に行われた。特に占領地行政と治安の空白が目立った一部の北部地域は銃が法になり、恐怖と報復が繰り返された。朝鮮戦争期間中に、北朝鮮の人民軍と左翼によって虐殺された民間人は総約122,799人、北朝鮮に拉致された拉致北者は約84,532人、朝鮮戦争中に死んだ民間人が約244,633人と推定された。