長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。
長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。
長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。
本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。