太平洋戦争におけるビアク島の戦いで、ニューギニア領ビアク島の海岸で、日本軍兵士の死体が、約2週間の太陽の灼熱にさらされた。悪臭を発する腐乱した白骨化した死体が散在した。日本軍兵士は食糧も飲料水も枯渇して、わずかな乾パンと鍾乳石の地下水で飢えと渇きをしのいだ。洞窟内は感染症から糞尿と腐敗した死体から発する悪臭で充満した。アメリカ軍は6月20日頃から火炎放射器では到達しない洞窟の入口から、火のついたガソリン缶を投げ込んで爆発させた。トンネルの床に散乱した日本軍兵士の死体。脳と腹部の破裂によって吹き飛ばされた死体。死んだ日本軍兵士の耳、鼻、口、目から流れる血。死にたいと思った日本軍兵士の集団自殺の死体。
太平洋戦争のニューギニア戦線で、ビアク島の戦いが1944年5月27日から8月20日まで勃発した。アメリカ軍は、マリアナ諸島に侵攻するため、飛行場の確保などを目的としてニューギニア北西部のビアク島へ上陸した。日本軍の守備兵士は「北のアッツ、南のビアク」と呼称される玉砕の死闘を繰り返した。ビアク島は非常に強力な日本軍の防衛陣地であった。サンゴ島で、平らではなく、高い崖、丘、無数の巨大な洞窟があった。南海岸はサンゴ礁で防御され、約760mの高さの崖が並列した。平坦な地面は島の南端に向かって、日本軍は脅威となる東にモクマー飛行場、中央にボロケ飛行場、西にソリド飛行場を設置していた。
日本軍とアメリカ軍は、ビアク島の占領のため戦闘したが戦略的に無意味となった。日本軍の守備隊は、アメリカ軍がマリアナ諸島の侵略を断絶するために、アメリカ軍からビアク飛行場の使用を排除していた。ビアク島の戦いでアメリカ軍は、侵攻することで飛行場が日本艦隊作戦を支援することを妨げた。しかし、両軍の司令部は、変化する戦術的および運用上の状況が提示されても、元の計画を実行するように判断した。両軍の司令部は、しばしば何が起こっているのか不明瞭となり、本部司令部からの制約の下で戦い、誤った評価に基づいて行動し、矛盾した命令を出した。アメリカ軍は自らの配分で活動き、攻撃を加速するために、繰り返し指示された方針には従わない。日本軍は、すべての命令に従い、それが意味をなさなかった。アメリカ軍は勝利して、日本軍は敗北して多大な犠牲を出した。日本軍兵士は約14,900人のうち、約10,000以上が戦死して、生存した生還者はわずか520人であった。アメリカ軍は約30,000人のうち約471人が戦士して、戦傷者は約2,433人で、戦病者は約7,200人に及んだ。
(極東国際軍事裁判(東京裁判)における提出資料)