広島逓信病院にて、1945年10月8日に原爆症を治療中の2人の患者は、中学生のように見える。
帽子で保護されていた髪毛は残っている。しかし、髪毛の線の下で燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がっていた。広島原子爆弾の熱線と爆風の強度を証明している。手術室で応急的な治療室を兼用していた。黒く壊れた手術用の無影灯が天井からぶら下がっていた。時計が午後6時を過ぎても、治療室の外では被爆者が待機して列を並んだ。
鉄筋コンクリートの2階建ての広島逓信病院は、爆心地から東北約1.4kmで猛烈な爆風を受けた。病院職員は、死亡は約5人、院長を含めて重症は約7人に及んだ。午前9時頃から西端の薬品倉庫から出火して、広島逓信病院の2階と逓信局の3階に火災が拡がった。消火により1階の病院には火災は及ばなく残存した。この時点で、重症な被爆者は約200人と火傷の被爆死やは約700人が殺到した。疎開していた広島逓信局の約100枚の畳を、直ちに収容被爆者のベッドの代用とした。収容患者は約平均220名で、8月6日から8月15日までの約10日間で約60人が被爆死した。
広島逓信病院は、広島原子爆弾に被爆する約1月前の1945年7月頃に、空襲の対象を避けるために、全ての入院患者は退院させ疎開させた。周辺の施設、軍隊、軍司令部、学校などは被爆で壊滅して焼土となった。爆風で広島逓信病院の窓枠は吹き飛んだ。爆心地から約2kmで病院として残存していたのは、広島日赤病院と広島逓信病院のみであった。被爆者に対して、広島逓信病院内で一日中にわたり懸命で厳しく可及的な救護がされた。
蜂谷道彦院長は約56日間の被爆治療を記録した『ヒロシマ日記』(朝日新聞社,
1955年)を刊行した。"Hiroshima Diary" Michihiko Hachiyama (North Calorina
University Press, 1955,
約18国で翻訳済み。田辺剛造岡山大名誉教授(整形外科)は証言する。「私は岡山医大の三年生、広島が大変だということで二十日ごろ、医師二人、学生二人、看護師三人で救援活動に行き、広島逓信病院で蜂谷院長に会いました。全身傷だらけでしたが、元気に診療されていました。白血球を勘定してみいと言われ、原爆症の特徴を教えてくださいました」。