第2次世界大戦にて、アメリカ空軍は日本軍が占領した香港に対して無差別の空襲を投下した。香港空襲の犠牲により、崩壊した建物の下敷きに2人の少年が犠牲となり爆死した。日本軍は報道機関に対して、犠牲者の狼狽の状況、死傷者の運搬状況、死体などは、事実を誇張して刺激する被害の実態を公表することを禁じて極秘にした。
イギリスの植民地であった香港を日本軍が1941年12月25日から終戦まで占領統治した。香港の戦いでイギリス香港総督が日本に降伏してから、日本のポツダム宣言受諾による降伏後まで、3年8ヶ月間にわたり日本軍が占領統治した。日本と中華民国の戦争が続いていた上に、香港住民は日本軍の香港占領に抵抗した。
日本軍の香港占領時の1942年9月からは、中華民国内やイギリス領インド方面からの連合国軍の爆撃機による香港空襲が勃発した。主に日本軍の施設を目標するも、無差別な誤爆も度々発生した。最も犠牲者が多かったのは、アメリカ空軍による1945年1月21日の香港の湾仔市街への誤爆であった。香港住民の死者は約1,000人、負傷者約3,000人に達した。さらに1945年の香港空襲では、銅鑼湾にあった病院付近に爆弾が落ち、約490名の死者を出し、小学校にも誤爆があった。