特攻隊員の手紙や遺書は軍部の検閲があり、遺書や手紙は自らの本心は書けれない。特攻隊員の自爆あるいは戦死は、神聖化して崇められ、冥福を祈られ、功績を感謝されて、戦果を奉り、慰霊として追悼された。日本が敗戦することは明らかになる直前に、特攻隊員として出撃すれば生還は許されない。
特別攻撃隊の呼称が特攻隊であった。航空機で出陣すれば、まずは生存できない自爆死あるいは戦死に直結した。1944年6月のマリアナ諸島の敗戦から終戦まで、大半の航空機に大量爆弾を装着して、アメリカ軍の戦艦に体当たりして激突する特別攻撃が執行された。最初の約250kgから次第に約500kgの爆弾を搭載した。初めて1944年10月20日に編成された特攻隊に、初めて神風特別攻撃隊と命名された。剣術道場の「神風(しんぷう)流」から引用して、「かみかぜ」と訓読みされた。大本営海軍部は特攻の戦果と美談を大々的に喧伝し、新聞は号外で報じた。撃沈した戦艦は47隻で、1隻に約81人に犠牲を伴った。しかし、特攻の戦果は次第に乏しくなり、事前に察知するアメリカ軍の侵攻を遅滞する留まった。
太平洋戦争の末期になると、特攻隊員の多くは学徒動員で徴兵された学生となった。多くの学生の特攻隊員は、初めての出撃が最初の自爆となつた。太平洋戦争の末期になって、突然に学徒動員に徴兵された。特に沖縄戦では、約1915機体の航空機で、特攻隊員は約4,389人が自爆死あるいは戦死した。慶応大学在学中に特攻隊員に学徒動員されて、1945年5月14日に特攻出撃前に、両親に向けて遺書を残した。
「お父さんお母さん!!
では出発します。
笑って死にます。
不孝者でしたが、お許しください。
先に行きお待ちして居ます。
時々想い出して下さい。
呉々もお体をお大切に」