スリランカは人口の約7割がシンハラ人(仏教系)であり、約2割が原住民のタミル人(ヒンズー教系)である。1948年にイギリスから独立後に、シンハラ系政権となり、タミル人は抑圧された。タミル人は北東部に分離独立を目指すタミール・イーラム解放の虎(LTTE)を1975年5月に設立した。1983年から民族紛争が激化して多数の市民まで犠牲となる内戦状態に陥った。1997年7月にはトリンコマリーで、シンハラ人系要人を狙ったLTTEのテロに巻き込まれて死亡した女子校の女性校長が葬儀された。2009年5月18日にシンハラ系政権がLTTEを制圧して内戦が終結した。
アメリカ軍兵士が、1943年にアメリカ合衆国の母国の婚約者に、日本人の遺物を送付した。婚約者に送付した日本軍兵士の頭蓋骨の写真が、1943年のライフ誌に掲載された。1944年にシンガポールのシ・レンゴ抑留所でも、アメリカ兵が自分たちの家族に日本兵の骨をお土産として送ったという新聞が回覧された。日本ファシズムに対する狂気じみた戦争宣伝となった。ライフ誌は、1936年に11月23日から1972年12月29日休刊まで写真を通じたアメリカからの視点の週刊誌が発刊されていた。
ベルゲン・ベルゼンのユダヤ人強制収容所に取り残されたナチス親衛隊のドイツ人兵士は捕虜となた。イギリス軍兵士の監視下で、大量虐殺されたユダヤ人の死体を回収して、墓地に埋葬させられた。中央の人物は、それを主導したドイツ親衛隊のフリッツ・クライン医師であった。フリッツ・クラインは、ユダヤ人の大量虐殺の1945年1月から期間中に、ベルゲン・ベルゼン強制収容所での残虐行為を主導した刑罰で、絞首刑に処せられた。(「アンネの日記」のアンネ・フランクは、3月前後に上記で死亡した。)
グルジアから独立する黒海沿岸のアブハジアがグルジア軍と戦闘した。グルジアがNATO加盟するのを阻止するロシアは密かにアブハジアに軍事的支援をしていた。アブハジア軍と支援するチェチェン軍は、コドリ渓谷のゲオルギ村で2001年10月3日にグルジア軍との戦闘が勃発した。天候不良の中で、14名が殺害されたアブハジア兵の死体が転がって散在した。チェチェンはアブバシア支援することで、敵対するロシア軍を撤退させ、独立交渉を要請した。2008年8月に再紛争が勃発しロシアはアブハジア独立を承認した。
第2次世界大戦の北アフリカ戦線で、エジプト北部のエル・アラメインの激闘からドイツ軍は撤退した。ドイツ軍兵士は、北アフリカ砂漠を自転車に乗って西に向って、沿岸道路にて走行していた。ドイツ軍隊に追いつく直前に、イギリス軍の狙撃兵に狙われて悲惨にも銃殺された。自転車からドイツ軍兵士の死体は砂漠に上向きに転倒した。ドイツ軍は、エル・アラメインの前に勝利が有り、後に敗北が有りで悲惨な撤退となった。
ナチス・ドイツは1939年7月1日に、ソビエト連邦が9月17日にポーランドに侵攻した。9月3日には、イギリスとフランスが相互援助条約で宣戦布告して第2次世界大戦が勃発した。ナチス・ドイツ軍兵士は、1人のドイツ軍将校の殺害の容疑で、多数のポーランド人を死刑に処した。ドイツ人の死亡に対する報復として死刑にするポーランド人の比率は、100倍以上の人数に達した。ナチス・ドイツ軍は、市民と軍人も無差別に根絶して民族浄化するためにポーランド人を処刑して大量虐殺した。
インドのラジブ・ガンジー首相らは、タミル人系のスリランカ新政府組織(LTTE: Liberation Tigers of Tamil Eelam)に干渉して、1987年にインド軍を進駐させた。シンハラ人系のスリランカ政府が、約3割のタミル人を殺戮して紛争が勃発していた。タミル人が出移民したタミルナドゥ州の南マドラス近郊で、1991年5月21日に遊説中に爆弾テロの犠牲となった。タミル人女性がタミル・ガンジーに最敬礼して足に触れた瞬間に自爆した。頭部が吹き飛ばされて46歳で即死させた。
東京大空襲により、1944年11月24日から1945年8月15日まで、東京の都心は118回の空襲を受けた。来襲した航空機は約4,317機、投下爆弾11,642発、投下焼夷弾389,241、死者は約95,966名と負傷者は70,971名に及んだ。B-29から投下された焼夷弾により、火事嵐が起き、全ての人も物も、生命と財産を、焼失した。母がちぎれかかった娘の幼児を抱えながら、共に焼け死んだ。それらの死体は、完全に焼け焦げて黒化して硬直したままで散在していた。
ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日から、東ヨーロッパでは民主化による自主独立の内戦が勃発差した。ほとんどの国々は無血で民主化された。しかし、ルーマニアだけは、チャウシェスク社会主義政権が大規模デモに対して軍隊が12月17日から21日に発砲して市民を死傷した。起点となったティミショアラでは、政権側軍隊が膨大な市民を大虐殺して、約4,000人の死体を地中の墓に埋めた。12月25日に大統領が直ちに死刑で処刑されて、ルーマニアは民主化の過程に入った。
スエズ動乱が、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化の宣告した1956年7月26日から勃発した。10月29日にイスラエル軍がシナイ半島に侵攻した。シナイ砂漠ではエジプト軍兵士の死体が散在して放置された。10月31日にイギリス軍とフランス軍は、スエズ運河に侵入し、カイロ周辺を空爆した。11月にはアメリカさらにソ連と中国がエジブトに武力援助を公表した。イギリス軍とフランス軍が12月22日に撤退してスエズ動乱は終結した。
ユーゴスラビアから独立後の1992年3月3日から1995年10月31日までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。2日間の停戦中であった1992年5月27日に、セルビア人勢力からサラエボに砲撃した3発により、中心部のパン屋に買い出したイスラム教のボシュニャク人らの20名が死亡した。食料不足で命がけの買い出しのサラエボ市民にパンを与えない飢餓作戦の一貫として虐殺した。その後も各々が民族勢力圏を拡大する民族浄化により、虐待や虐殺をして、その犠牲者から膨大な難民らが発生した。
ツチ族のルワンダ愛国戦線が、1994年7月にルワンダを制圧して、フツ族を大量虐殺した。膨大なフツ族の難民が発生して周辺に逃避した。ザイール・ゴマにおけるルワンダ難民キャンプでは、1994年7月21日に衛生と栄養状態の悪化により、細菌性のコレラの感染で大量のルワンダ難民が死亡した。夫がその妻の遺体を、死体の集積所に横たえた。
太平洋戦争にて、1943年5月12日にアメリカ軍はアッツ島に上陸して、日本軍は17日間の戦闘して玉砕により全滅した。アッツ島のチチャゴフ湾方面に膨大な日本軍兵士の死体が散在していた。マサカ湾とチチャゴフ湾と間の約3kmの地帯には、約1,000人以上もの日本軍兵士は無残な死体となった。アメリカ軍との戦闘だけでなく、多くの日本軍兵士は万歳を叫んで集団で自決した。日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに過ぎず、アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。5月30日に日本軍の大本営は初めて玉砕を公表した。
治安維持法が、第50回衆議院おいて1925年2月19日に緊急に上程された。その直前に日本では治安維持法に反対する市民による大規模な示威運動が行われた。1925年2月11日に治安維持法ならびに労働争議調停法などに反対する約3,000人の市民集会が、東京の芝赤羽の有馬ヵ原で集会をした。1925年3月15日には衆議院で可決されて、その直後の3月19日に貴族院でも可決された。「第1条 国体を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織しまたは情を知りてこれに加入したる者は十年以下の懲役または禁錮に処す。前項の未遂罪はこれを罰す。」
第1次世界大戦で、猛毒の毒ガスが使用された。1918年4月18日のエスタインの戦闘で、ドイツ軍の毒ガスで視覚障害となったイギリス兵士たちが、盲目に失明したために、応急手当て救護所へ一列に隊列を組んで行進した。盲目の兵士たちは、両手を前方の兵士の両肩で支えながら、隊列を組んでゆっくりと救護所まで恐る恐る歩行しながら移動した。
ベトナム戦争において、サイゴン市から南約135kmのヴィンロン省において、アメリカ軍の第25歩兵師団の兵士らが無差別にベトナム人を掃討した。1970年8月に第25歩兵師団の兵士がライム収穫中であった若年のベトナム人農民らを殺害した。ベトナム派遣中には、第25歩兵師団は22個の名誉勲章を拝受されて、その中隊の一部が映画「プラトーン」の題材になった。
ナチス・ドイツが1939年9月1日にポーランド侵攻して第2次世界大戦が勃発した。まずユダヤ系市民から悲惨な虐待を受けた。彼らは1939年10月から強制労働を強要され、1940年1月に財産権を失い高率な税負担があり、度々に大衆による虐殺運動であるポログロムにも巻き込まれた。1940年1月から移動が制限され、隔離地域であるゲトーに閉じ込められた。ドイツ当局の命令を執行する組織により、極端な劣悪な環境で死亡率が平時の16倍にも達した。ポーランド市民らはゲトーで殺害されたユダヤ人の死体を集積して処分させられた。
日中戦争において、80年前の1937年12月13日に南京に入城した日本軍は、中国人に対して大量の虐殺事件を引き起こした。無抵抗の非戦闘員である投稿兵から捕虜さらに婦女子から市民を含めて、虐殺だけでなく、略奪から強姦の残虐行為を繰り返した。城外を出て、長江を渡って退避する途中の市民らが銃撃を受けて大量に虐殺された。日本軍は殺害された大量の市民らを処理して、黒焦げになった死体が長江に流されて下関の岸に堆積した。
ナガランド州はインドとビルマの国境に広がる山岳地帯にナガ族が暮らしている。イギリスによる植民地支配から1947年8月15日に独立したインドと1948年1月4日に独立したビルマ連邦に山岳地帯は割譲された。インド領となったナガランド州では長期間にわたり激しい独立運動が行われた。インド軍はナガ族に対して弾圧や虐殺を継続している。紛争により弾圧と虐殺された頭蓋骨が散在して放置された。ナガランド州の独立運動に対するインド軍の弾圧によってナガ族は内戦した。和平会談にも失望したナガ族は中国に兵士を送り内戦の協力を受けた。
アメリカ同時多発テロが、2001年9月11日に4機の航空機を用いた同時期にテロ事件が勃発した。その内の2機は世界貿易センタービルの北棟には午前8時46分に、南棟には午前9時3分に突入して大炎上した。世界貿易センタービルの北棟タワーからは、まっさかさまに飛び降りた人は、頭部から地面に向けて落下していった。南棟は午前9時59分に、北棟は午前10時28分に崩壊して、約2,602人が犠牲者となった。その仇討のために、アメリカ軍等は2001年10月7日のアフガニスタン紛争から2003年3月20日のイラク戦争に報復侵略した。
ナチス・ドイツ軍は1939年9月1日に、ソ連軍が9月17日にポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発した。ドイツ軍は、直ちにユダヤ人とポーランド人あわせて約87,000人が、ポーランド占領地域からワルシャワなどの各都市のユダヤ人街へ送致した。囲い込みから送致して絶滅を目指す大量虐殺のホロコーストを実施した。1939年9月11日に、ナチスドイツ軍が抹殺した死体を、ポーランドのワルシャワで露天墓地に集積して山積みにした。
クメール・ルージュにより1975年5月13日にポル・ポト政権が樹立し、国号がカンプチアに改名された。カンプチアの約4割におよぶ約200万人以上もの市民の大虐殺された。犠牲者は女性や子供までに及んだ。ベトナムは軍事介入するも1979年2月17日には中国と直ちに軍事衝突して大虐殺は秘密裏にされた。熱帯林に埋もれた白骨の山だけでなく、犠牲者はプノンペン市内の元高校内でも見出された。
アメリカからの独立革命で、キューバ政権が1959年1月1日にカストロらにより樹立された。アメリカと対立して独裁化するために農地接収をする4月の農地改革法による集団農業で一部の農民らは難民となった。その直後から反カストロ政権は多数の政治犯らを刑務所に送還して牢獄して家畜なみに虐待と虐殺した。首都のハバナのエクアドル大使館に逃げ込んだキューバ農民が、すぐさまキューバのカストロ政権の秘密警察によって射殺された。
76年前の日本時間1941年12月8日に宣戦布告の直前に、太平洋戦争の緒戦となった日本軍による真珠湾攻撃が、ハワイ準州オアフ島のアメリカ海軍の基地と艦隊に対して奇襲をした。アメリカは12月11日にはドイツ・イタリアにも宣戦をして地球規模の第2次世界大戦に参戦する口実となった。アリゾナ戦艦は日本空軍から膨大な空爆をされて、アメリカ軍兵士1,177名のうちに1102名が戦死して沈没した。その他に戦艦8隻と船舶13隻も沈没した。
フィリピンは、1896年からスペインの植民地から独立運動をした。スペインが1989年5月1日を敗北するも、アメリカ合衆国が植民地とした。アメリカ軍はフィリピン人の独立運動を掃討すめため、1902年までに少なくとも約20万人を虐殺した。1900年11月にはフィリピン人市民に対しても殺人、強姦、水責めなどの残虐も行われた。アメリカ軍は降伏している無抵抗のフィリピン人捕虜も連行して、銃殺してはちの巣になった死体を塹壕などに散在した。
ベトナム戦争にて、1968 年5月5日に南ベトナムのサイゴン政府軍のみはサイゴン市のダカオに潜伏した北ベトナムの開放戦線を掃討した。南ベトナム政府軍は、グエンディンチュー通りに潜伏していた解放戦線の一人の兵士を銃殺して、死体に集合して検視した。北ベトナムの開放戦線は、1968年1月31日から都市部に対するテト大攻勢により、既に3月31日にはジョンソン大統領は次期不出馬を表明してアメリカ軍は敗退を決定していた。
第2次世界大戦中に、ルーマニア人自身がユダヤ人の虐待者となった。1941年6月28日のルーマニアのヤーシで、ルーマニア人によるユダヤ人の大量虐殺が行われた。大勢のユダヤ人々をヴルトゥールの森を行進させた後に、10人づつ一緒くたにされて、次々と銃殺された。ルーマニア軍は、ユダヤ人は約14,000人を虐殺し、その中には母親や子どもたちも大勢含まれていた。2004年になってルーマニア自らユダヤ人の大量虐殺を公式に認めた。
長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に炸裂して14歳の女子の学徒が長崎市内にて全身の熱傷と放射能の被爆をした。爆心地より約17km離れた大村海軍病院に8月10日に搬入された(写真上)。重傷な壊死したやケドであるも十分な手当もできずに、8月12日には急速に重篤となりベッド上で点滴するも死亡した(写真下)。
For details of the Nagasaki atomic bomb, refer to the following link. Earth Atomic Bomb
広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂して被爆した重傷者は、広島宇品港から約4kmと近海にある似島の陸軍検疫所に搬送された。似島で8月7日に全身が焼きただれて熱傷した重症の被爆者が似島で撮影された。撮影された重傷の被爆者の写真には、「原子爆弾熱傷(重症)死亡」と記録された。
For details of the Hiroshima atomic bomb, refer to the following link. Earth Atomic Bomb
日中戦争にておいて、1937年8月13日からの第二次上海事変から日本軍の戦線が中国各地に拡大した。中華民国の国民党が遷都した南京を12月13日に攻略して占領した。その後に日本軍は約2ケ月間にわたり、中国人兵士から捕虜、南京から周辺住民を巻き込んで暴行と虐殺をした。日本軍は、諸説はあるものの膨大な中国人市民を虐殺した。日本軍兵士がその死体を塹壕に集積して検死した。
第2次世界大戦中に、日本軍の1940年からのベトナム進駐による食糧の徴収から、それに対するフランスの植民地政策やアメリカ軍の空襲等から不順な天候で、1944年9月から1945年5月に北ベトナム周辺で大飢饉が発生した。その大飢饉による餓死者の推定は、最大で約200万とも推定されている。あらゆるベトナム市民らの餓死した死体は路上に散乱して集積された。
ヨルダン空軍のカサースベ中尉は米軍主導の対イスラム国の軍事行動に参戦した。2004年12月24日にシリア領空でイスラム国のミサイル攻撃を受けて墜落して身柄を拘束された。イスラム国は2005年2月3日に、拘束した中尉を火焼ぶりで殺害した残酷な映像をネット上で公開した。中尉は屋外に設置されたおりの中で、生きたまま火をかけられ、焼け焦げになった(DABIQ7_p8)。ヨルダン軍は直後に映像は本物として、懲罰と報復の声明を出した。
清国にて儒教の孔子の生誕地である山東省身の曲阜から外国を排外する義和団の乱が1900年に勃発した。西太后政権が支持して宣戦布告したために、海外から8カ国連合軍 (ドイツ・イタリア・日本・ロシア・イギリス・アメリカ・オーストリア)が中国に干渉するために7月14日に天津を侵略して、8月15日から翌年の9月7日まで北京を占領した。天津では、8カ国連合軍により扶清排外する義和団や疑われた膨大な中国人市民が虐殺された。
パレスチナはシリア南部の地域的名称であった。第2次世界大戦後に1947年11月29日にパレスチナ分割決議案が国連で採択され、1948年5月14日にユダヤ人のイスラエルが独立した。対抗したアラブ諸国との中東戦争から、イスラエルはヨルダン川西海岸とガザ地区を侵略した。1987年12月6日にイスラエル軍と衝突してパレスチナ人が死亡した。反乱が蜂起するインティファーダにより内戦が続いた。それをイスラエル軍は圧倒的な武力で弾圧した。内戦の犠牲者となったパレスチナ人は子供らを救護しながら逃避した。
日露戦争において、中国の遼寧省の東北部で両軍による激烈な遼陽会戦が勃発した。日本約13万人でロシア約22万人による戦闘で、甚大な死傷者となり日本は約2万2千人、ロシアは2万5千にも達して、日本軍が侵略した。日本軍が特に激戦となった首山堡南高地で1904年9月1日に塹壕の中の多数の戦死者を収容した。白兵突撃させ首山堡を確保させ戦死した橘周太を美談と英雄に祭り上げて正当化した。
太平洋戦争にて、サイパン島で日本軍とアメリカ軍と1944年6月15日から7月9日までの激しい戦闘により膨大な戦死傷者が出た。日本兵士や在留日系市民らはサイパン島の最北端のプンタン平原の通称バンザイクリフの岬に追い込まれた。アメリカ軍の投降勧告を聞き入れず、悲惨な恐怖と玉砕に洗脳され飛び込み自殺をした。約80m下の断崖の海岸は真赤に染まり死体で埋まった。
アフガニスタン紛争にて、2001年から2014年までタリバーン勢力、アルカイーダ武力勢力、アメリカ軍等の新政府が厳しい内戦をした。2013年8月には首都カブールのインディガンジー子ども病院に、重傷の子供が声にならない声で泣き叫んだでいた。両手と下肢に包帯されるも、戦争による貧困で医療材料と人材が絶対的に不足して治療も困難であった。
ベトナム戦争の末期にて、ベトナムのサイゴン市のダカオ地区にて、1968年1月からテト攻勢をした北ベトナム解放戦線と南ベトナム政府軍が戦闘した。一般市民であった露天商の妻が戦闘に巻き込まれて流れ弾で射殺された。主人は呆然として立ちすくみ、その後に病院に移送するも死亡した。
ロシア革命の1917年からレーニン政権が樹立された1922年までのロシア内戦により、大規模なロシア難民が発生した。特に1922年の冬期は記録的な寒波となり、約900万ものロシア市民らが餓死と凍死した。散乱した死体が積み重ねて山積みされて、多数の墓標が林立していた。
アフリカ中央部のルワンダでは、多数派のフツ族と少数派のツチ族の間で、1990年から1994年まで内戦に陥った。フツ族により約100万人ものツチ族の大虐殺が1994年4月から7月に起こった。1994年7月頃には首都キガリの周辺のニャマタにて大虐殺がされていたた。教会内外には無数の死体が散乱して、異様な悪臭と、死体が腐敗していた。その内乱後には、隣国のゴンゴ内にて、難民した両民族における紛争が継続した。
太平洋戦争末期の沖縄戦で、1945年4月1日に沖縄本島にアメリカ軍が侵攻した。沖縄は日本本土における1億総玉砕の最前線となった。4月6日から航空機で本格的な特攻をするも、4月7日に戦艦大和が撃沈し、沖縄戦は激化した。アメリカ軍海兵隊がパトロール中に日本軍兵士を射殺して検死をした。
イラン・イラク戦争が、1980年9月22日から1988年8月23日まで継続した。ペルシャ湾の石油資源、イスラム教のシーア派とスンニ派の対立、中東諸国及び欧米諸国の干渉などの複雑な要因で、約8年もの長期戦争により膨大な犠牲者と火種を残した。両軍ともにイスラム教の信仰で突撃を繰り返して、戦死者の遺体が砂漠などに散乱した。
第2次世界大戦にて1944年6月10日に、ナチスドイツ軍はフランスの中部のオラドゥール・シュル・グラヌの全村民を無差別に虐殺した。全ての村民はフランス抵抗勢力として、男性197名、女性240名、子供205名の合計642名が、ナチスドイツ軍により火あぶりの焼死あるいは射殺された。散乱した多数の無差別な犠牲者の遺体残骸が集積された。
静穏なる君主よ、私は、彼らの言語を知る敬虔な宗教人が共に居れば、彼らは皆、今すぐにもキリスト教徒になるものと考えます。したがって両陛下が、このように偉大な民を教会に帰依させ、改宗させるために、機敏なる措置をとられ、かつて、父と子と聖霊にざんげしようとしなかった者共を滅亡させられたように、しかるべき決定をされますように、神に願うものであります。我らの命には限りがありますが、こうすることによって、両陛下も、生涯を終えられるときは、その王国を邪教や悪の汚れのないきわめて静穏な状態に置かれることになりましょうし、また永遠の創造主の前に喜んで迎え入れられることになりましょう。私は、創造主が、両陛下に末長き生命を与えられ、さらに広大な国や領土を与えられよう祈りますと共に、両陛下が聖なるキリストの教を今日まで弘めてこれましたように、今後もさらにこれを拡大させられるよう、そのための意志と資質を、創造主が両陛下にお与えになることを祈るものであります。アーメン。本日船を浜から下ろしまして、木曜日には神の御名において出帆し、黄金と香料を探し求め、かつ陸地を発見するために、西東に向かうつもりです。
提督は手真似で、カスティリャの両国宝が、カリベ族を滅ぼして彼らの両手をくくり、皆連れてくるように命ずるだろうと語った。そしてロンバルダ砲とエスピンガルダ銃を打たしたが、その弾丸が非常な力で貫いて行くのを見て、彼は感心してしまった。彼らは、砲弾の音をきいた途端に大地にひれ伏してしまったのである。彼らは提督の所へ、耳や目や、いろんなところに大きな黄金片がはめこんでいる大きな面や、金製の飾物を持ってきて、王自らが、それらを提督の頭や首にかけて、また提督と同行して居たキリスト教徒達にも数々の品を贈った。提督はこのように贈物を見て喜び、かつ心慰められて、本船を失ったその苦しみも、悲しみも薄らいだ。そして本船が坐礁したのも、この地に根拠地を設定するようにとの神の思し召しによるものと解した。
エルサルバドル内戦が、1980年10月から1992年6月の停戦まで、アメリカ軍が支援する右派軍事政権と反米国が支援する反政府民族解戦線(FMLM)が悲惨な戦闘をした。1982年3月に選挙阻止を訴えた反政府のゲリラと弾圧する政府軍とが激烈な戦闘をした。サン・フェリベ等では、虐殺された市民を含めたゲリラ兵士の死体が政府軍のトラックに放り込まれた。
第2次世界大戦の北アフリカ戦線が、1940年9月のイタリア軍のエジプト侵攻から、1941年2月からイタリア防衛のためにドイツ軍が参戦した。1943年5月のチュニジア戦から撤退するまで長期に戦闘された。撤退しながらのドイツ軍からの追撃弾の砲撃に被弾したアルジェリア人兵士が戦死した。ラバの死体とともに黄色い穀物が周囲に散乱した。
アメリカ合衆国の陸軍兵士は、インディアンを保留地に追い込み民族浄化していた。終に1990年2月29日に、騎兵隊と砲兵隊が、中北部のサウスダゴタ州ウンテッド・ニー・クリークで、突然の発砲からスー族の約350名の半数も無差別に虐殺した。インディアンとの最終内戦となり、1991年1月1日にアメリカ民間人らが、氷雪に散乱たインデアンの遺体を検証した。
第2次世界大戦後に、ヨーロッパからの北アメリカの植民地解放は悲惨な戦闘を伴った。特にアルジェリアでは、フランスに対して1954年11月1日にアルジェリア民族解放戦線(FLN)が独立紛争をした。フランス軍はFLNを撲滅のため、1957年に圧倒的な武力により首都のカスバ掃討を行って多数のアルジェリア人の犠牲者を出した。ド・ゴール復帰政権は1961年1月の国民投票で民族自決となり、アルジェリアが1962年7月1日に独立を正式決定した。
太平洋戦争にて、ギルバート諸島のタワラ環礁のベティオ島に1943年11月21日から11月23日に激しい戦闘となった。アメリカ軍は海上から攻撃しながらタワラに上陸した。上陸した海岸には、多くの日本人兵士が戦死した死体が散在した。戦闘でタラワを守備した日本軍兵士は全滅して戦死した。
スペイン内乱において、1923年9月の軍事政権から1931年10月に共和政権が樹立した。1932年9月の共和政権の農地改革の失敗などに対して全国労働連合(CNT)系の農民らの抗議活動が勃発した。共和政権は1933年1月にカサス・ビエハス村にて、22名の農民らを虐殺して弾圧した。1933年3月には独立右翼連合(CEDA)による国民戦線派政権が樹立され、1936年2月19日には人民戦線政権が打倒した。1936年10月には軍隊が反乱して軍事政権となり、スペイン市民は長期にわたる暗黒の干渉と内戦に巻き込まれた。