1937年8月に日本軍が爆撃した上海駅は、近代の空爆がもたらす破壊の予兆となった。日中戦争中の日本軍の空襲により、上海駅の廃墟に死体が横たわった。廃墟には幼児が取り残された。第二次上海事変中の1937年8月28日に日本軍に爆撃された上海南駅で王小亭によって撮影された、傷つき泣き叫ぶ赤ん坊は、『ライフ』誌の1937年10月4日号に掲載された。アメリカの世論に大きな影響を与えた一方で、当時から演出写真ではないかとの疑惑が論争にもなった。
九・一八事件とは、1931年月18日に日本の関東軍が柳条湖事件を勝手に演出し、中国東北部の中国軍を挑発し、中国東北部への侵攻につながった事件である。1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件も同様で、日本軍は行方不明の兵士を口実に万平城の中国軍守備隊への攻撃を開始した。
日本の侵略の方向を南北から東西に変え、長期戦を容易にするため、中国の軍事力が最も強い華東地区で日本を挑発し、日本の軍事力を上海に引き込み、上海にいる日本軍を全土の力で打ち負かすことにした。
1937年8月9日、2人の日本海軍中尉、大山功らが上海の虹橋空港に車で乗り付けたとき、その機会は訪れた。中国軍は日本軍を挑発したとして、直ちに彼らを射殺した。8月13日、上海の日本軍守備隊が重装備の中国軍に包囲され、松湖海戦が始まった。
日本軍は最新兵器と強固な要塞を駆使して抵抗し、中国軍の大躍進を阻んだ。日本軍は上海の兵力を増強し、中国軍は日本軍を撃破することができなくなり、防御態勢に転じ始めた。中国軍の総戦力は80万、日本軍の総戦力は20万に達し、3ヶ月の激戦の末、中国軍は不利な状況に陥った。11月8日、蒋介石は完全撤退を命じ、日本軍は上海を占領し、松湖海戦は終結した。
1937年8月13日から11月8日の間に、日本軍は4万人の死傷者を出し、中国軍は18万人の死傷者を出した。中国軍は11月8日に撤退を開始した。上海にいた日本軍の大部分は依然として進撃し、戦闘を続けた。性急な命令、突然の退却、統制のない指揮のため、中国軍の退却は全面的な敗走となり、日本軍に簡単に追いつかれ殺され、10万人以上の死傷者を出した。