南ベトナム解放民族戦線のテロ容疑者のチャン・バンダン・チャンがサイゴン中央市場の前広場で1965年6月に公開処刑された。チャン・バンダン・チャンは目隠しをされながらも、「アメリカ反対」と叫んだ。
1965年1月1日、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)はビンザーの闘いで、南ベトナム政府軍の精鋭部隊を打ち破った。危機感を抱いたアメリカは、もはやアメリカ軍の直接介入以外に南ベトナム政府を救えないと判断し、2月7日、アメリカ軍は北ベトナム爆撃 (北爆) を開始した。さらに3月8日には、北爆を行う航空基地の防衛という名目で初のアメリカ軍の地上戦闘部隊の海兵隊を投入した。1964年8月に「トンキン湾事件」をでっち上げ、 ベトナム戦争拡大の白紙委任を獲得していたジョンソン大統領は、1965年7月28日に大規模なアメリカ軍の戦闘部隊のベトナム投入を発表して、本格的な局地戦争に突入した。6月に入り北爆は拡大した。
1965年2月の北爆開始のきっかけは「トンキン湾事件」である。1964年7月30日、アメリカ銀の支援のもと南ベトナム軍が北ベトナムのタインホア近くのトンキン湾内の島に上陸を開始した。これに連動してアメリカ軍の駆逐艦が北ベトナム沿岸のパトロールを行った。8月2日、アメリカ軍の駆逐艦「マドックス」と北ベトナム艦艇との間に交戦した。さらに8月4日にもパトロールを強行した「マドックス」が攻撃されたと報告された。
8月4日にに実際の攻撃にあったかどうか真偽不明である。アメリカ政府は、「トンキン湾事件」としてでっち上げ、 ベトナム戦争本格介入の口実とする。アメリカ政府の対応はきわめて早かった。直後に、南ベトナム軍とアメリカ軍の作戦行動は伏せて「北から一方的に攻撃された」と新聞発表した。8月5日には「トンキン湾事件」の報復と称して、北ベトナムの基地を初めてアメリカ軍機が爆撃した。8月7日にはアメリカ議会が「東南アジアにおける行動に関する議会決議」(トンキン湾決議)を可決して、ジョンソン大統領に強力な戦時権限を与えた。これによりジョンソン米大統領は北爆に踏み切った。
だが「トンキン湾事件」の真実がその後、明らかになった。1968年2月21日、米上院外交委 でモース議員が、駆逐艦「マドックス」はスパイ船で「アメリカ軍ははトンキン湾で挑発者だった」と述べた。1970年にはアメリカ上院がトンキン湾決議の廃棄を可決した。















