7/29/2024

Japanese troops entered the Chinese city of Nanjing on December 12, 1937, and by January 13, 1938, the water problem had become so severe that water was cut off and people could not even wash their clothes. The swamps were contaminated by the dead bodies of Nanjing residents being thrown into them.

 日本軍により1937年12月12日から中国の南京城内に入城してから大虐殺が勃発した。その後に南京は荒廃して、1938年1月13日時点では水の問題も深刻となった。断水しており、洗濯もできない。沼という沼には南京の人々の死体が投げ込まれて汚染されていた。1938年1月13日の南京の状況は、電話、電報、郵便、バス、タクシー、力車、すべて機能が停止している。水道は止まっており、電気は大使館のなかだけで、しかも一階しか使えない。イギリス大使館には、まだ電気が通じていない。 

 南京の交通が麻痺しているのは、城壁の外側は中国人に、南京市内はその大部分が日本軍によって、焼き払われてしまったからだ。そこにはいまだれも住んでいない。およそ約20万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の小屋に寄り集まって、南京の人々は、かつがつその日をおくっている。多い所には約600人もの難民が収容されており、かれらはここから出ていくことはできない。日本軍から、難民の保護は新しく設立された自治委員会が引き継ぐ、よって米販売所を閉鎖すべしとの命令が日本軍から出された。 

 南京安全区の外の道路には人気がなく、廃墟となった家々が荒涼とした姿をさらしている。中国人女性は、目もあてられないほどひどい目にあった。食料品の不足は限界にきている。安全区の人たちは、すでに馬肉や犬の肉に手をだしている。日本軍に非公認の安全区は、ラーベ委員長が組織して、中国人非戦闘員の最後の避難所と化した。日本軍部隊が統制を失っていた。人間の戦争のやり方は、もし、日本と中国の立場が逆だったとしても、とくに扇動する人間がいる場合には、おそらく大した違いはなかっただろう。占領された地域では南京市内でも田舎でも、作物が畑で腐っている。南京市内の畑に近よることは禁じられており、田舎では住民が逃げたか、殺されたかしたからだ。野菜、じゃがいも、かぶ、そのほかどれもこれもみなだめになって、飢えが蔓延している。