ハンガリー革命の指導者であるクン・ベーラによるクン政権の「赤色テロ」のなかで「反革命」の容疑をかけられた数百人が1919年5月に死刑で処刑された。1919年春に、赤色のテロの犠牲者の死体と革命テロ集団であるレーニン少年はポーズをとった。1919年春にクン政権はルーマニア軍による侵攻で打倒されて短命に終わった。
1918年11月にクンはソ連の支援を受けて、ハンガリー共産党を設立した。ミハーイ・カーロイの政府に反抗する運動を展開した。1919年3月にクンは釈放されるとクーデターを成功させ、共産主義政権であるハンガリー・ソビエト共和国の樹立を宣言した。新政権は4ヵ月後に、ルーマニア軍の進撃に直面し崩壊した。クン政権の失脚後に、反革命部隊は同様の虐殺の報復を行った。1930年代後半のスターリンの大粛清に、クンは裁判にて死刑で処刑された。
ハンガリーの赤色テロは、1919年3月21日から8月1日まで存続したハンガリー・ソビエト共和国のハンガリー共産党が、約4ヶ月間に行った抑圧的な暴力と弾圧である。主に反共産主義勢力が国家の敵とみなした人々を虐殺した。ハンガリー・ソビエト共和国はソ連のボリシェヴィキ方式に従って、レーニン少年などの革命テロ集団を設立した。赤色テロにより、最大590人が殺害された。
第一次世界大戦の余波で、1918年にドイツが西部戦線で敗北する中で、オーストリア=ハンガリー王政は崩壊した。1918年11月16日に、オーストリア=ハンガリー君主国のシャルル1世が政権から離脱した直後に、ミハーイ・カーロイは自らを臨時大統領とするハンガリー民主共和国を宣言して、1919年1月11日に大統領に就任した。カーロイは、1919年3月21日に共産党のハンガリー・ソビエト共和国の新政権に逮捕された。