7/05/2024

A severe drought in northern China in 1921 caused tens of thousands of children to starve to death. Peasant children starved to death on the roadside, their bodies strewn about. None of those who starved to death along the way were buried. The bodies were exposed in the wilderness.

 1921年の中国北部の深刻な干ばつによって、数万人の子供が餓死した。農民の子供たちが、道端で餓死して、死体が散乱した。村や町の人影もまばらで、朽ち果てた状態の家屋が立ち並んでいた。飢饉から逃れてきた難民は最低限の生活を維持することもできず、逃げ回った。高齢者、病人、障害者、子供たちの生命はさらに不安定となった。統計によると、1921年5月中旬までに12,377人の子供が餓死した。人身売買された人の数は約5,057人であった。その料金は安く、子供1人につき最低1元から最高50元であった。

 1921年5月中旬までに、張作霖による中国東北部3省を統合して豊かにする政策を是正する武装政策の結果として、子供たちらが餓死した。1921年5月19日付の『宣言』によると、1921年の春以降に、干ばつが続いた結果、中国北部の飢饉が深刻化した。唐山、内連など5県の飢饉は特に深刻となり、子供が1元で人身売買された。どこに行っても、行く先々で木の樹皮を剥がされて、きれいに食べられた。途中で餓死した者は、誰も埋葬されなかった。死体は荒野にさらされていた。野原では、収穫物は枯れ果て、緑の跡形もなかった。

 1920年から華北地方で発生した干ばつにより、被災者約2000万人、犠牲者約50万人の華北大飢饉が勃発した。広大な地域の農村が大飢饉に陥った。中国が政治的に統一されず、地方に軍事政権が介在していた。北京政府内部では、1920年7月14日から7月19日に大飢饉の被災地を舞台として、直皖戦争が勃発した。他方で広東軍政府も分裂していた。中国の北京政府の主導権を巡って、華北地方で安徽派の段祺瑞と直隷派の曹錕が戦った。直皖戦争で安徽派は大敗して、段祺瑞の政権は崩壊した。直隷派(曹錕)と奉天派(張作霖)が、結局政権の主導権で内部対立して、1922年4月の第一次奉直戦争で、直隷派が奉天派を破って直隷派の単独政権を樹立した。1924年9月15日の第二次奉直戦争で、張作霖は北洋政府を掌握した。1928年6月4日に、日本の関東軍が満州を支配するために張作霖爆破事件で暗殺した。