Earth No War NGO (ENWN) : Earth No War NGO (ENWN) would like to present "Memory of Earth Wars" that earth citizen experienced miserable histories of earth wars. Earth No War would like to send it to worldwide hearts for peaceful earth citizens as Advocators from Earth No Wars. "Memories of Earth Wars" will be a true prevention against Earth Wars. (Wikipedia, Blogger: Disclaimer; SNS, Pinterest: Prohibit Area; Absolutely Prohibited) earth.nowar@gmail.com @Jan/1st/2016, ENWN
4/30/2018
4/29/2018
A 10 years old boy in Afghanistan was exposed to a small bomb of the Soviet Union, who suffered both his hands ruptured, both eyes also blinded, and both lower limbs severely burned.
アフガラスタンの抵抗勢力に屈服したアミン政権が軍事支援を要請して、1979年12月にソ連のブレジネフ大統領はアフガニスタンに侵攻した。イスラム原理主義の革命が、ソ連にも波及するために侵攻をした。ソ連は、アミン政権を収拾勢力が無く、KGBが殺害して、新たな大統領を立て、ソ連の親政権を維持した。パキスタン経由でアメリカはパキスタンを経由して、ムジャーヒディーンを支援して、ソ連の侵攻に対して紛争をした。異教徒からの攻撃からイスラム共同体を守るイスラム戦士と民兵組織とソ連の双方が攻撃を過激化した。ソ連軍は苦戦を強いられ、駐留は長期化して犠牲者と財政支出も膨大となり、最終的にゴルバチョフ大統領はソ連軍の1989年2月に完全撤退をした。ソ連邦は2年後に崩壊した。ソ連は、地中に地雷を埋没した上に、玩具様の小型地雷や爆弾も地面に投下した。多くの子どもが、ソ連製の小型地雷や爆弾を拾って被爆した。10歳の男子も、1985年に小型爆弾で、両手が破裂して両目も失明して、両下肢に重度の火傷を受けた。病院にて切断された息子に両親が悲嘆に暮れた。
4/28/2018
The British Marine Corps shot an Arab soldier dead lying who had defended Crater district in the Aden Emergency with a British soldier injured.
イギリスのアデン保護領と南アラビア連邦で1963年12月10日から1967年11月30日の戦闘によるアデン危機から、南イエメンがイギリスから独立した。エジプト及びソ連が、南イエメンの独立軍を支援した。1967年1月19日から20日、NLF(イエメン国民解放戦線)はアデン街頭で抵抗運動を仕掛けた。派遣された保護領のイギリス軍はNLFの抵抗運動を粉砕した。FLOSY(南イエメン解放戦線)がNLFに代わり、抵抗運動とイギリス軍の戦闘は2月まで続いた。1967年6月には第3次中東戦争が勃発して、アデン危機は更に悪化した。6月20日、エジプトに呼応した南アラビア連邦の警察官が、イギリス軍に反旗を翻した。蜂起はアデン武装警察にも広がり、22人のイギリス軍兵士を虐殺して、ヘリコプターを撃墜し、クレイターを獲得した。イギリス海兵隊が高所からアラブ人兵士を10人射殺した。アラブ人兵士は約400人でクレイターを防衛した。 NLFとFLOSY兵士は市街地で銃撃戦を始めたが、放火や強盗、殺人等も発生した。イギリス軍はクレイターの主要な出口を2つ封鎖した。11月下旬、度重なるNLFゲリラの攻撃により、イギリス軍はアデンから撤退して、NLFはイエメン人民民主共和国(南イエメン)を独立した。
4/27/2018
A Japanese soldier could be drafted by sending a red paper with a postal fee, so that the soldier's life was worth one sen and five rin.
日本帝国の兵役法による召集令状で、膨大な日本国民の男子が徴兵されて、戦場に駆り出された。日本人兵隊は一銭五厘の郵送料で赤紙を送れば補充がきく、兵隊の命は一銭五厘の価値しかないと比喩された。実際は役場の職員が直接に赤紙を持って行くのが原則であった。第2次世界大戦では、召集令状により、実際に約2,500,000人の生命を、南方の洋上と諸島から北方の極寒の大陸で奪い去られた。帝国陸海軍の召集令状等の色から赤紙などと呼ばれた。陸軍省の大半の召集は赤色が使われて、当初は真赤だったが、戦時の物資不足による染料の節約で次第に地色が薄くなり、太平洋戦争ではピンクとなった。海軍省の召集も同じ色が使われたため、陸海両軍の令状を混合して赤紙と呼称された。1873年に陸軍省から発布された徴兵令が、日本国民の男子に兵役の義務を課すために全面改正して、兵役法が1927年4月1日に公布されて12月1日に施行された。兵役法はポツダム命令により、1945年11月17日に廃止された。
4/26/2018
In Bethlehem, the birthplace of Christ within the West Coast District of the Jordan River, an Israeli soldiers of the occupation forces was shot dead by a Palestinian in 1988.
ヨルダン川西岸地区は、1948年5月14日のイスラエルの独立宣言から勃発した第一次中東戦争で、ヨルダンによって占領されて、1950年にはヨルダンは東エルサレムを含む地域を併合した。同地区は1967年までヨルダンの一部を構成していたが、1967年6月の第三次中東戦争でイスラエル軍によって占領された。ヨルダンは1994年に領有権を放棄して、現在はイスラエル軍とパレスチナ開放機構(PLO)の自治政府によって統治されている。ヨルダン川西岸地区は、国際連合からはイスラエル占領地として認められた。ヨルダン川西岸地区にはパレスチナ人やユダヤ人および他の少数民族グループが居住している。同地区の大多数を占めるパレスチナ人は、第一次中東戦争よりイスラエルからの難民あるいは直系の子孫である。キリストの生誕地であるベツレヘムを含む同地区で、1988年に占領軍のイスラエル人兵士が、パレスチナ人によって銃殺された。
4/25/2018
The Victims of the vast Manila citizens were scattered by the greatest urban warfare in Asia until the Japanese army was completely swept away from Manila by the American Army.
太平洋戦争にて、フィリピンのルソン島のマニラ戦は1945年2月3日から3月3日の4週間も続き、最も悲惨な犠牲となった。日本軍のマニラ海軍防衛隊と残置陸軍部隊は、建物や民家を陣地化して徹底抗戦をはかった。アメリカ軍が完全に包囲するなか、マニラ地区では成人男性の大多数が日本軍により逮捕拘留され、銃剣や機銃掃射で殺戮され続けた。全地区にて婦女子が組織的に強姦された。アメリカ軍は、狙撃による兵員の損害を抑えるために重砲火の無差別砲撃で街区を次々と破壊した。民間市民被害者の6割を日本軍による殺戮、4割をアメリカ軍の重砲火による死亡と推定された。アメリカ軍記録では、日本軍はほぼ全滅(1万6665名の戦死)、アメリカ軍戦死は1010名であった。最大の犠牲者はマニラ市民で、食糧と水が欠乏する状態と無差別砲撃で民間人犠牲者の総数は約10万人にも達した。日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦によって、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。
4/24/2018
By the Islamic law in Iran, the death penalty was executed against the four general officials, and their corpses were accumulated in the mortuary place.
アメリカに追従していたパフレヴィー朝が1979年1月のイラン革命で倒れた。シーア派ホメイニのイスラム原理主義のイラン=イスラム共和国が1972年2月に成立した。ファギーフ(イスラム法学者)による統治を掲げ、アメリカ文化を否定して厳格なイスラームの規範を復活させた。宗教色の強い、イスラム原理主義の政治が展開された。裁判ではシャリーア(イスラム法)が適用された。イランのテヘランの裁判により、1979年2月に最初の4人の将官に対して死刑が執行されて、死体が置き場に集積された。
1979年11月14日にはイラン人学生らによるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、1981年1月20日まで占拠された。メジャーズ(国際石油資本)が撤退して、イランが石油国有化に踏み切り石油輸出を制限して、石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらした。
アメリカに追従していたパフレヴィー朝が1979年1月のイラン革命で倒れた。シーア派ホメイニのイスラム原理主義のイラン=イスラム共和国が1972年2月に成立した。ファギーフ(イスラム法学者)による統治を掲げ、アメリカ文化を否定して厳格なイスラームの規範を復活させた。宗教色の強い、イスラム原理主義の政治が展開された。裁判ではシャリーア(イスラム法)が適用された。イランのテヘランの裁判により、1979年2月に最初の4人の将官に対して死刑が執行されて、死体が置き場に集積された。
1979年11月14日にはイラン人学生らによるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、1981年1月20日まで占拠された。メジャーズ(国際石油資本)が撤退して、イランが石油国有化に踏み切り石油輸出を制限して、石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらした。